バルーチスターン
バルーチスターン(Baluchistan、バローチー語: بلوچستان)は、現パキスタンの西南(バローチスターン州)、イラン東南(スィースターン・バルーチェスターン州)、アフガニスタン南部にまたがる地方。バローチスターン(Balochistan)とも呼ばれる。
名称
編集バルーチスターンとは「バローチ人の土地」の意味。
地理
編集アラビア海に面するマクラーン海岸には、パキスタンにはグワーダル(グワーダル港)があり、イラン側にはチャーバハール(チャーバハール港)がある。ゲドロシア砂漠を擁する。
歴史
編集有史前
編集新石器時代(紀元前7000年-紀元前2500年)のメヘルガル遺跡が知られている。バルーチスターンはインダス文明を担ったとされるバルーチ人やブラフイ人が住んでいた。
クリ文化(紀元前2500年-紀元前2000年)は、ゲドロシアにあり、メヘルガル遺跡とはボーラーン峠の反対側に位置している。クリ文化と同時代には西にジーロフト文化などが知られている。クリ文化やジーロフト文化とインダス文明やエラムとの関係は未解明である。
古代
編集紀元前530年頃、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によってゲドロシア属州(サトラップ)が置かれた。
3世紀頃、マハーバーラタによればインド・スキタイ王国のパラタラジャス[3]があった。
イスラーム到来
編集7世紀にはウマイヤ朝、8世紀にはアッバース朝とアラブ人の支配下に置かれていた。
13世紀にはモンゴル人の治世下になるイルハン国、15世紀にはチムール帝国の版図に入った。1486年、バルーチ人のミール・チャカール・リンドがリンド部族の族長となると、ラシャリ部族との30年戦争で勝利した。さらにミール・チャカールはアフガニスタンやパンジャーブ地方へも侵攻し勝利した。
カラート藩王国
編集1638年にカラート藩王国(1638年 - 1955年)が成立したが、ペルシャやアフガニスタンからの影響が大きく、アフシャール朝のナーディル・シャーがカラートの部族連合軍に勝利し、カルホラの領土を奪われた。その後、半独立の状態が長く続いたが、1758年に再び独立を確保する。
イギリス保護領バルチスタン
編集1840年にイギリス軍が侵攻。1854年に条約を結び、イギリス保護領バルーチスターンとなった。このあたりはイギリスによるインドの統治が進むにつれて、本国とインドの間の電信線を敷くためには不可欠な地方となり、ガージャール朝ペルシャのナーセロッディーン・シャーとロイター男爵が相談して行なわれた「ロイター利権」(英: Reuter Concession)の供与と連動して、イギリスはバルーチスターンを4つの藩王国(カラート藩王国、ハラーン藩王国、ラス・ベラ藩王国、マクラーン藩王国)に分割し、バルチスタン首席弁務官領を設置した。
バルーチスターン紛争
編集1947年にイギリスのインド統治が終了すると、「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルーチスターン藩王国連合として独立させ、議会や内閣を設置した。
パキスタンの軍事的圧迫(バルーチスターン紛争)に抗すことができず、藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられた(en:One Unit)。
バルーチスターン併合後
編集バルチスタンはパキスタン国土の4割を占めるが人口は5%に過ぎない[4]。しかしバルチスタンは石炭、天然ガス、クロムなど豊富な資源に恵まれており、バルチスタンのバルーチ人はパキスタンと中国に富を収奪されているという意識を持っている。
1973年にイスラマバードのイラク大使館をパキスタン軍と警察が襲撃して武器が押収される事件が起き、イラクとソビエト連邦とインドはイランやパキスタンの領内で活動するバルーチスターン解放軍などのバルーチ民族主義運動に援助を行ってるとパキスタン政府から非難された[5][6][7][8][9][10]。
1973年、en:1970s Operation in Balochistan(1973年 - 1978年)。
1998年5月28日と5月30日にパキスタンのナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣が初の核実験をバローチスターン州チャガイ地区Ras Koh丘陵の地下核実験施設で成功させた。
9・11テロ以後
編集住民
編集イラン語群に属するバローチー語を話すバローチ人が住む。その他、パシュトー語を話すパシュトゥーン人やブラーフーイー語を話すブラーフーイー人が住む。
言語は、第一言語としてパンジャーブ語やシンド語が使用されるほか、第二言語としてパキスタンではウルドゥー語、イランとアフガニスタンではペルシア語が使用されるなど、多重言語となっている。
脚注
編集- ^ 近八郎右衛門 編『明治改正大日本国名尽・世界国名尽』近八郎右衛門、金沢、1886年。全国書誌番号:40006482 。2017年12月20日閲覧。
- ^ 鈴木熊次郎 編『新案世界地図 : 教科適用』いろは書房、文陽堂、東京、1900年。全国書誌番号:40010941 。2017年12月20日閲覧。
- ^ 王朝名については、イラン系のPārthava、ギリシャ系のParthians、インド系のen:Parada Kingdomとの関連が指摘されている。"New Light on the Pāratarājas" p.11
- ^ “【巨竜むさぼる 中国式「資源」獲得術】第3部 真珠の首飾り(1)”. 産経新聞 (2010年4月2日). 2010年5月16日閲覧。
- ^ In Afghanistan's Shadow: Baluch Nationalism and Soviet Temptation by Selig Harrison
- ^ “The Friday Times:Caught! (But what?) by Shahid Saeed” (英語). Thefridaytimes.com. 2014年10月14日閲覧。
- ^ Baluch, Ahmad K.. Inside Baluchistan, a Political Authorbiography by Mir Ahmad Khan Baluch
- ^ “Obituary: Sher Mohammed Marri” (英語). The Independent. (1993年5月18日)
- ^ “Iraq's shadow on Balochistan” (英語). Asia Times Online
- ^ “Anatomy of Baloch Liberation Army” (英語). dawn.com. (2006年7月15日)
関連項目
編集- パキスタン > バローチスターン州
- イラン > スィースターン・バルーチェスターン州
- バルティスターン - 本項と混同されがちであるが、カシミール北部の全く異なる地域である。
- en:Shamsi Airfield
- en:Makran Coastal Highway
- en:Iraqi support of Baloch rebels
- en:Dad Shah
外部リンク
編集- カラート藩王国(バルチスタン、バロチスタン) - ウェイバックマシン(2007年1月27日アーカイブ分)
- バルチスタンとは?[リンク切れ](ドイツ語ビデオ解説)