ニコライ・スリュニコフ
ニコライ・ニキトヴィチ・スリュニコフ(ロシア語: Николай Никитович Слюньков、ラテン文字転写の例:Nikolai Nikitivich Slyunkovc、ベラルーシ語: Мікалай Мікітавіч Сьлюнькоў、1929年4月26日 – 2022年8月9日)は、ソビエト連邦の政治家。1983年から1987年まで白ロシア共産党(現ベラルーシ共産党)中央委員会第一書記。ソ連共産党政治局員候補、同党中央委員会書記。白ロシア人。
ニコライ・スリュニコフ Мікалай Мікітавіч Сьлюнькоў Николай Никитович Слюньков | |
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生年月日 | 1929年4月26日 |
出生地 |
ソビエト連邦 白ロシア社会主義ソビエト共和国、ホメリ県 (現 ベラルーシ、ホメリ州) |
没年月日 | 2022年8月9日(93歳没) |
前職 | 白ロシア共産党中央委員会第一書記、ソ連共産党中央委書記、政治局員候補 |
所属政党 | ソ連共産党 |
称号 | レーニン勲章、社会主義労働英雄(1974年)[1] |
配偶者 | リディア・パヴロヴナ・スリュニコワ |
来歴・人物
編集1929年4月26日、ソビエト連邦白ロシア共和国ホメリ県(現在のベラルーシ共和国ホメリ州)にて[2]農民の家庭に生まれる。1950年にミンスク自動車技術学校を卒業し、1954年から1962年まで白ロシア農業機械化大学に学ぶ。1954年にはソ連共産党に入党している[1]。
1960年から1965年までミンスクトラクター工場支部支配人、1965年から1972年にはミンスクトラクター工場支配人、ミンスクトラクター製造協会総支配人を務めた。1972年にミンスク市共産党委員会第一書記に就任。レオニード・ブレジネフ時代の1974年にはソ連国家計画委員会(ゴスプラン)副議長となり、1983年白ロシア共産党中央委員会第一書記となった[2]。
ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、1986年に党中央委員を経て政治局員候補に選出。1987年から1990年までソ連共産党中央委書記を務め、この間、1987年から1988年まで、党中央委経済部長も務めた。1988年から1990年まで党中央委社会・経済政策委員会議長。第7期、10期、11期ソ連最高会議代議員やソ連人民代議員にも選出された[1][3][4]。1990年に引退し、以降はミンスクに居住。2022年8月9日に93歳で死去した[2]。
脚注
編集- ^ a b c http://www.hrono.info/biograf/bio_s/slyunkov_nn.html
- ^ a b c “Умер бывший руководитель БССР Николай Слюньков”. ТАСС. (2022年8月10日) 2022年8月19日閲覧。
- ^ “Фатех Вергасов”. www.pseudology.org. 2022年9月7日閲覧。
- ^ “Слюньков Николай Никитович - Биография”. www.biografija.ru. 2022年9月7日閲覧。
外部リンク
編集- ニコライ・ニキトヴィチ・スリュニコフ
- Фатех Вергасов(スリュニコフの経歴あり)
- ニコライ・ニキトヴィチ・スリュニコフ(Биография.ру内)
- 20年後のインタビュー(84歳のときのインタビュー、動画あり)
党職 | ||
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先代 チホン・キセリョフ |
白ロシア共産党中央委員会第一書記 1983 - 1987 |
次代 エフィム・ソコロフ |