白ロシア・ソビエト社会主義共和国
この記事はロシア語版、ベラルーシ語版、英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年12月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
- 白ロシア・ソビエト社会主義共和国
- Беларуская Савецкая Сацыялістычная Рэспубліка
Белорусская Советская Социалистическая Республика -
← 1920年 - 1991年 → (国旗) (国章) - 国の標語:
Пралетарыі ўсіх краін, яднайцеся!
万国の労働者よ、団結せよ! - 国歌:
Дзяржаўны гімн Беларускай Савецкай Сацыялістычнай Рэспублікі
白ロシア・ソビエト社会主義共和国国歌
1945年以降の白ロシアSSR領-
公用語 ベラルーシ語、ロシア語、ポーランド語、イディッシュ語 首都 ミンスク - 白ロシア共産党第一書記
-
1920年 - 1923年 ヴィリゲリム・クノリン 1990年 - 1993年 アナトリー・マロフィエフ
- 元首
-
1920年 - 1922年 ヴィリゲリム・ノリン 1991年 - 1991年 スタニスラフ・シュシケビッチ - 首相
-
1920年12月18日 - 1924年3月17日 アレクサンドル・チェルヴャコフ 1990年4月7日 - 1991年12月25日 Vyacheslav Kebich - 面積
-
207,6km² - 人口
-
1989年 10,151,806人 - 変遷
-
設置 1920年 消滅 1991年
通貨 ソビエト連邦ルーブル 時間帯 UTC +3 現在 ベラルーシ
白ロシア・ソビエト社会主義共和国(はくロシア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、ロシア語: Белорусская Советская Социалистическая Республика, ベラルーシ語: Беларуская Савецкая Сацыялістычная Рэспубліка)、略称で白ロシアSSRは、ソビエト連邦の構成共和国である。首都はミンスク。1922年のソビエト社会主義共和国連邦結成時におけるロシアSFSR、ウクライナSSR、ザカフカースSSRなど15のSSR(ソビエト社会主義共和国)のひとつである。旧ソ連崩壊により1991年に消滅しベラルーシとなった。国連の原加盟国である。
ベラルーシの歴史 | |
---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |
ベラルーシの先史時代 | |
東スラヴ人 | |
キエフ大公国 | |
ポロツク公国 / トゥーロフ公国 | |
リトアニア大公国 | |
ポーランド・リトアニア共和国 | |
ロシア帝国(北西地域) | |
ベラルーシ人民共和国 | |
白ロシア社会主義ソビエト共和国 (1919年) | |
リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | |
ベラルーシ共和国 | |
ベラルーシ ポータル |
なお、本来のロシア語の「ベロルシヤ」(Белоруссияビラルーッスィヤ)のカタカナ転写が「ベロルシア」「ベロルシヤ」、日本語訳が「白ロシア」や「ベロロシア」(「白いロシア」の意味)、「ベロルシヤ」のベラルーシ語化したものが「ベラルーシ」(Беларусьビェラルースィ)で、現代ではこのベラルーシ語表記がロシア語にも採用されている。「白ロシア」、「ベロルシア」、「ベラルーシ」はすべて同じ意味の単語で、政治的な理由や原語の表記上の問題で違いが出ているものである。
歴史
編集第一次世界大戦以前はロシア帝国の一部であった白ロシアが1918年3月25日に独立を表明し、ベラルーシ人民共和国が成立。白ロシアが初めて国家を形成した。この共和国はドイツ帝国軍撤退後に崩壊し、短命に終わった。
1919年には、ロシアのボリシェヴィキ勢力の後押しで白ロシア社会主義ソビエト共和国が成立した。その後、リトアニアと合併してリトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立。これは、歴史的に白ロシアの地をリトアニア大公国が統治していたことに由来する。しかし、1921年に終結したポーランド・ソビエト戦争を経て、白ロシアの国土はポーランドと白ロシア共和国で分割された。その後、1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国やウクライナ社会主義ソビエト共和国とともにソビエト社会主義共和国連邦を結成した。
1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されると、ソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンは独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランド東部に軍を進め、ソビエト連邦軍占領地のうち本来白ロシアの地とされた地域を白ロシア共和国に組み込んだ。
1941年6月22日、ドイツ軍がソ連領内に侵攻したバルバロッサ作戦で独ソ戦が始まると、6月29日には激戦の末に首都ミンスクが陥落し(ミンスクの戦い)、8月までに白ロシア全土はドイツ軍に占領され、ドイツによる東部占領地域の一部としてバルト三国とともにオストラント国家弁務官統治区域に組み込まれた[1]。1944年7月からのバグラチオン作戦でソ連軍がこの地域を奪回し、1939年の併合地を含めた白ロシア全土で社会主義共和国体制が復活した。1945年2月、米英ソの3国首脳によるヤルタ会談でポーランド問題が討議され、ソ連によるポーランド東部併合の追認として第一次世界大戦後に提案されていたカーゾン線をほぼ引き継ぐ形でソ連とポーランドの新国境が引かれることとなり、現在に至る白ロシア(ベラルーシ)の領域が確定した。
同年5月に独ソ戦がドイツの敗北で終結し、第二次世界大戦後の国際平和機構として構想された国際連合の設立条約として同年6月24日に国際連合憲章が締結されると[2]、白ロシア共和国はウクライナ共和国とともにソビエト連邦に加盟する国連原加盟国として承認され、国連総会に議席を持った。1974年から2年間は非常任理事国も務めている。ただし、後述する独立宣言期まで外交面での独自性は一切なく、ウクライナとともに「ソ連が国連総会で3票持っている」のとほぼ同様の状態になった。
一方、内政面では過酷な戦災からの復興努力が続けられ、領域が西方に移動したポーランドに追放されているポーランド人や、ナチス支配下で大量虐殺を被ったユダヤ人を埋める形で、東方からロシア人などの移住が進んだ。ソ連共産党は白ロシア共産党第一書記を基本的に白ロシア人から選ぶなど、一定の範囲で民族感情への配慮がなされたが、移住者などの影響もあって、もともと文化的相違の小さいロシアの影響が白ロシアでより強まった。
1986年4月26日、ウクライナでチェルノブイリ原子力発電所事故が発生すると、発電所にほど近い白ロシア南東部で多量の放射性物質が降下し、居住制限地域などが生じることとなった。これはソ連国内の他地域と比べて静穏であった民族運動の高揚へとつながり、バルト三国のような独立国家樹立を主張するベラルーシ民族戦線が台頭した。
1990年7月27日に独立宣言を行い、その後はソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領との交渉が続いたが、1991年ソ連8月クーデターが失敗に終わると同年8月25日にソ連からの独立が承認された。9月19日採択の法律により、国名が「白ロシア」から「ベラルーシ」へと改められた[3]。12月8日にスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長はロシアのエリツィン大統領とウクライナのクラフチュク大統領とのベロヴェーシ合意でソビエト連邦の解体を宣言し、独立国家共同体 (СНГ; CIS) 創設に関する協定が締結された。
国勢調査
編集以下に1959年の国勢調査の結果を記す。
民族構成
編集主要な都市
編集脚注
編集参考文献
編集- 塩川伸明『国家の解体——ペレストロイカとソ連の最期(全3巻)』東京大学出版会、2021年。ISBN 9784130362825。