トート・ヨージェフ (1929年生のサッカー選手)
トート・ヨージェフ(Tóth József, Tóth II József、1929年5月16日 - 2017年10月9日)は、ハンガリーのヴァシュ県メルシェヴァート出身の元サッカー選手、元サッカー指導者[1]。元ハンガリー代表[1][2]。ポジションは右ウイング、右インサイドフォワード[1][3]。
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基本情報 | ||||||
国籍 | ハンガリー | |||||
生年月日 | 1929年5月16日 | |||||
出身地 | メルシェヴァート | |||||
没年月日 | 2017年10月9日(88歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1940-1948 | チェペル | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1948-1961 | チェペル | 296 | (78) | |||
代表歴 | ||||||
1953-1957 | ハンガリー | 12 | (5) | |||
監督歴 | ||||||
1964-1967 | カポシュヴァーリ・ラーコーツィ | |||||
1967-1970 | Pápai Textiles | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マジック・マジャールの一員として1954 FIFAワールドカップで準優勝した[1]。
来歴
編集1940年にチェペルに入団、1948年8月にネムゼティ・バイノクシャーグIでデビューを果たした[1]。
1953年から1957年までハンガリー代表に選出され、通算12試合5得点を記録した[1]。1954年5月23日に行われたイングランド戦 (7-1で勝利) で初得点、準優勝した1954 FIFAワールドカップでは西ドイツ戦(8-3で勝利)とブラジル戦(4-2で勝利)に出場し、西ドイツ戦で得点を記録した[1]。
クラブでは1958-59シーズンにNB Iで優勝した[1][2]。1961年に現役を引退、NB Iで通算297試合77得点(296試合78得点[2][3])を記録した[1]。1940年から1961年までの選手キャリアのすべてをチェペルで過ごしたワン・クラブ・マンである[2]。
1964年から1967年までカポシュヴァーリ・ラーコーツィ、1967年から1970年までPápai Textilesで監督を務めた[1]。
1955年にハンガリー人民共和国の Magyar Népköztársaság Érdemes Sportolója[1][2]、2015年にハンガリーの Magyar Érdemrend tisztikeresztje を受勲した[1][2][4]。また、2011年にチェペル名誉市民[1]、2014年にブダペスト名誉市民となった[1][2]。
2017年10月9日に88歳で死去した[2]。1954 FIFAワールドカップ準優勝メンバーの最後の生き残りであった[1][2]。同年11月、チェペルFCのベーケ・テーリ・シュタディオンの前にトート・ヨージェフ、同じく準優勝メンバーでチェペルに2年間所属したチボル・ゾルターンの銅像が設置された[5]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “Gyász: elhunyt Tóth II József, az Aranycsapat csatára”. Nemzeti Sport Online. MediaWorks (2017年10月9日). 2018年9月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Meghalt Tóth II. József, az Aranycsapat utolsó játékosa”. Index (2017年10月9日). 2018年9月21日閲覧。
- ^ a b “Az Aranycsapat árnyékában is klasszisok fociztak”. ORIGO (2015年7月8日). 2018年9月22日閲覧。
- ^ “Átadták az állami kitüntetéseket”. ORIGO. New Wave Media Group Kft. (2015年8月19日). 2015年9月21日閲覧。
- ^ “Csepel: felavatták Czibor Zoltán és Tóth II József szobrát”. Nemzeti Sport Online. MediaWorks (2017年11月25日). 2018年9月26日閲覧。