トム・メシェリー
トム・メシェリー (Tom Meschery, 1938年10月26日 - ) はロシア系アメリカ人の元バスケットボール選手。満洲国のハルビン出身。NBAのフィラデルフィア/サンフランシスコ・ウォリアーズ、シアトル・スーパーソニックスで活躍し、背番号『14』はウォリアーズの永久欠番となっている。
引退 | |
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ポジション | SF/PF |
基本情報 | |
ロシア語 | Tomislav Mescheriakov |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1938年10月26日(86歳) |
出身地 | 満洲国 浜江省哈爾浜市 |
身長(現役時) | 198cm (6 ft 6 in) |
体重(現役時) | 97kg (214 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | 聖メアリー大学 |
ドラフト | 1961年 7位 |
永久欠番 | ウォリアーズ 14 |
選手経歴 | |
1961-1967 1967-1971 |
フィラデルフィア/サンフランシスコ・ウォリアーズ シアトル・スーパーソニックス |
指導者経歴 | |
1971-1972 | カロライナ・クーガース |
受賞歴 | |
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Stats Basketball-Reference.com | |
ロシア名はTomislav Nikolayevich Meshcheryakov、ロシア語表記はТомислав Николаевич Мещеряков。
生い立ち
編集トム・メシェリーことトーマス・ニコラス・メシェリーの父はロシア軍人であり、二月革命時には中尉だった。母は貴族階級出身であり、彼女の父はケレンスキー暗殺も計画した反革命分子だった(トルストイの近親者でもあった)。2人は十一月革命から逃れるために亡命し、亡命先の満洲で出会い結婚。ハルビンでメシェリーが生まれた。世界に第二次世界大戦の影が忍び寄る中、まず父が渡米。しかし母とメシェリーは父の後を追うことができず、大戦が勃発。母とメシェリーは東京の強制収容所に収容されることになった。まだ幼かったメシェリーの最初の記憶は収容所の中であり、米軍による毎夜の空襲の恐怖だった。収容所内での生活は食糧不足に悩まされることもあったが、女性や子供ばかりを集めた収容所だったため、日本軍による虐待などはなかったという。終戦後、ようやく父の待つアメリカ、カリフォルニアへと移住。ジョセフ・マッカーシー主導による赤狩りが始まっていたため、この頃『トーマス・メシェリー』と改名した。
少年時代はテニスに熱中していたメシェリーだが、次第に背が伸び始め、8年生の頃からバスケットを始めるようになった。高校はローウェル高校に進学し、卒業する頃には多くの大学から勧誘されるほどの選手に成長。聖メアリー大学カリフォルニア校を経て、1961年のNBAドラフトでフィラデルフィア・ウォリアーズから全体7位指名を受けてNBA入りした。
NBAキャリア
編集- ウォリアーズ
ウォリアーズではウィルト・チェンバレンと共にプレイした。メシェリーがウォリアーズに入団した1961-62シーズンはチェンバレンが伝説的な1試合100得点、シーズン平均50.4得点25.7リバウンドを達成したシーズンである。チェンバレンに得点が集中し、さらにポール・アリジンやトム・ゴーラら優秀な選手が揃っていたが、メシェリーは1年目から12.1得点9.1リバウンドをあげる活躍を見せた。メシェリーはその荒々しいプレイスタイルから"Furious Russian"(猛烈なロシア人)という異名を与えられ、このシーズンに記録した通算330ファウルはリーグ1位となり、また毎晩のようにテクニカルファウルも貰っていた。
ウォリアーズがフィラデルフィアからサンフランシスコに移転した2年目の1962-63シーズンにはアライジンとゴーラがチームを去ったため、メシェリーはチームの第2オプションに昇格し、キャリアハイの16.0得点9.8リバウンドを記録。オールスターにも初出場している。翌1963-64シーズンには初めてNBAファイナルを経験するが、ウォリアーズにとっての仇敵ボストン・セルティックスに敗れている。
1964-65シーズンにはチェンバレンがチームを去り、ウォリアーズは1から出直すことになった。チームは新エースセンターのネイト・サーモンドを中心に再興され、1966-67シーズンにはプレーオフを勝ち進んでファイナルに進出するが、彼らの前にかつてのチームメイト、チェンバレン擁するフィラデルフィア・76ersが立ちはだかり、優勝の夢は果たせなかった。メシェリーはウォリアーズ再興のもう一人の立役者、リック・バリーに出場時間を奪われるようになり、2度目のファイナル進出を果たしたこのシーズンを最後に、シアトル・スーパーソニックスに移籍することになった。
- スーパーソニックス
スーパーソニックスは1967年のエクスパンションによって誕生した新生チームであり、メシェリーはそのオリジナルメンバーとなった。ソニックスでの1年目ではキャリア初となる14.5得点10.2リバウンドの平均ダブルダブルを達成し、翌シーズンも平均ダブルダブルを達成していたが、30歳を境に少しずつ衰え始め、初めて平均二桁得点を割った1970-71シーズンを最後に現役から引退した。
NBA通算成績は10シーズン778試合の出場で、9,904得点6,698リバウンド、平均12.7得点8.6リバウンドだった。
引退後・作家活動
編集引退した翌シーズンからABA、カロライナ・クーガーズのヘッドコーチに就任し、1シーズンだけ指揮した。成績は84試合35勝49敗、勝率.417だった。
聖メアリー大学時代、文学士の学位を取得していたメシェリーは1974年にアイオワ大学で修士号を取得。詩人でもあったメシェリーは自身も幾つかの詩集を出版している。バスケットに関係した詩も多く発表しており、現役時代、共に過ごしたチェンバレンにも詩を奉げている。
- 主な詩集
- Over the Rim 1970年
- Caught in the Pivot 1973年
- Nothing We Lose Can Be Replaced 1999年
- 主な業績
- NBAオールスターゲーム出場:1963年
- 聖メアリー大学殿堂
- ネバダ・ライターズ殿堂 (メシェリーの妻で小説家のジョアン・メシェリーも殿堂入りしている)
- ベイエリア・スポーツ殿堂
- 背番号『14』はゴールデンステート・ウォリアーズの永久欠番