トマス・フォーテスキュー (初代クラーモント男爵)

初代クラーモント男爵トマス・フォーテスキュー英語: Thomas Fortescue, 1st Baron Clermont1815年3月9日1887年7月29日)は、イギリスの政治家、貴族。ホイッグ党に所属し、1840年から1841年まで庶民院議員を務めた[1]

初代クラーモント男爵。フレデリック・サージェント(Frederick Sargent)による素描。

生涯

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初代クラーモント男爵の肖像写真。カミーユ・シルヴィ撮影、1861年。

チチェスター・フォーテスキュー英語版(1826年11月25日没)と妻マーサ・エンジェル(Martha Angel、旧姓ホブソン(Hobson)、サミュエル・ミード・ホブソンの娘)の息子として、1815年3月9日に生まれた[1]。1833年8月2日に遠戚にあたる第7代準男爵サー・ヘンリー・ジェームズ・グッドリックが生涯未婚のまま死去すると、その遺産を継承した[1]。1833年5月9日にオックスフォード大学エクセター・カレッジに入学、1837年にB.A.の学位を修得した[2]

1839年、ラウス県長官英語版を務めた[1]ホイッグ党、のち自由党に属し、1840年7月から1841年7月までラウス県選挙区英語版の代表として庶民院議員を務めた[1]。ラウス県選挙区では1847年に影響力を用いて弟チチェスターを当選させた[3]。『オックスフォード英国人名事典』によれば、フォーテスキューは病気不安症だったという[3]

ジャガイモ飢饉では救済委員会を通じた救済に尽力し、すばらしい地主と評された[4]

1852年2月11日、アイルランド貴族であるラウス県におけるドロミスケンのクラーモント男爵に叙された[1]。この爵位には特別残余権(special remainder)が定められ、初代男爵の男系男子が断絶した場合はその弟チチェスターおよびその男系子孫が継承できるとした[1]1800年合同法に基づき、アイルランド貴族爵位の創設には爵位3つの廃絶が必要であり、この男爵位の特許状ではランクリフ男爵ニュージェント男爵ロスコモン伯爵の廃絶を爵位創設の根拠とした[1]。1853年8月2日、アイルランド貴族代表議員選挙への投票権を認められた[1]

1866年5月2日、連合王国貴族であるラウス県におけるクラーモント・パークのクラーモント男爵に叙された[1]。この爵位に特別残余権は定められなかった[1]

1887年7月29日にレイヴェンスデイル・パークで死去、ジョーンズバラ教会(Jonesborough Church)に埋葬された[1]。クラーモント・パークのクラーモント男爵位は廃絶、ドロミスケンのクラーモント男爵位は特別残余権に基づき弟チチェスターが継承した[1]

家族

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1840年9月26日、ルイーザ・グレース・バトラー(Louisa Grace Butler、1816年7月18日 – 1896年11月8日、初代オーモンド侯爵ジェームズ・バトラーの娘)と結婚した[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 278.
  2. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (E to K) (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 481.
  3. ^ a b Matthew, H. C. G. (3 January 2008) [23 September 2004]. "Fortescue, Chichester Samuel Parkinson- [Chichester Samuel Fortescue], Baron Carlingford and second Baron Clermont". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/9938 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ McEvoy, Robert; Murphy, Nathan (June 2014) [July 2007]. "Workmen's Accounts, Heynestown, 1864 – 1866" (PDF) (英語). Louth County Archives Service. 2021年12月27日閲覧

関連図書

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  • Ó Néill, Pádraig (1997). "The Fortescues of County Louth". Journal of the County Louth Archaeological and Historical Society (英語). County Louth Archaeological and History Society. 24 (1): 5–20. doi:10.2307/27729806. JSTOR 27729806
  • Clinton, Georgina (1997). "Relief Committee Membership in the Union of Dundalk During the Great Irish Famine". Journal of the County Louth Archaeological and Historical Society (英語). County Louth Archaeological and History Society. 24 (1): 51–59. doi:10.2307/27729809. JSTOR 27729809

外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ヘンリー・チェスター
リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版
庶民院議員(ラウス県選挙区英語版選出)
1840年 – 1841年
同職:リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版
次代
トマス・ヴィジー・ドーソン閣下英語版
リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版
イギリスの爵位
爵位創設 クラーモント男爵
1866年 – 1887年
廃絶
アイルランドの爵位
爵位創設 クラーモント男爵
1852年 – 1887年
次代
チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー