ダニエル・エルズバーグ
ダニエル・エルズバーグ(英語: Daniel Ellsberg、1931年4月7日 - 2023年6月16日)は、アメリカ合衆国の政治活動家、経済学者、核戦略研究者、平和運動家。ランド研究所に在籍していた1971年、ベトナム戦争に関するアメリカ政府の意思決定に関する国防総省の極秘研究「ペンタゴン・ペーパーズ」を「ニューヨークタイムズ」、「ワシントンポスト」などに持ち込んで暴露し、国政論争を引き起こした。
ジョージタウン大学にて、2014年4月22日 | |
人物情報 | |
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全名 | Daniel Ellsberg[1] |
生誕 |
1931年4月7日[1] アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ[1] |
死没 |
2023年6月16日(92歳没) アメリカ合衆国・カリフォルニア州 |
出身校 |
ハーバード大学経済学部[1] キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学) |
学問 | |
学位 | 博士号(ハーバード大学、1959年)[1] |
特筆すべき概念 | エルズバーグの逆説(エルズバーグのパラドックス) |
主な受賞歴 |
ガンディー平和賞(en:Gandhi Peace Award、1976年) ライト・ライブリフッド賞(2006年) ドレスデン平和賞(2016年)[2] |
公式サイト | |
http://www.ellsberg.net/ |
経歴
編集ミシガン州デトロイト出身[1]。1952年、ハーバード大学経済学部卒業[1]。ケンブリッジ大学に留学[1]。1954年、アメリカ海兵隊に志願し入隊[1]。1957年、中尉で退役[1]。のちハーバード大学、ランド研究所、アメリカ合衆国国務省に勤務[1][3]。
1961年の論文で、経済活動の意思決定理論をめぐりエルズバーグの逆説(エルズバーグのパラドックス)とよばれる現象を指摘した。
1964年、アメリカ国防総省に入り国防次官補ジョン・マクノートンの特別補佐官に就任[1][2]。1965年、ゲリラ対策顧問としてベトナム戦争に参加[2]。1967年、ポーター次席大使の下でベトナム戦争の平定計画担当補佐官[2]。こうした中、米国のベトナム政策に批判的となり、タカ派からハト派に転向、1967年7月国防総省からランド研究所に移った[1]。
1971年、自らも執筆に加わったベトナム政策決定過程に関する国防総省秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」などに持ち込んで暴露し、世論に反戦を訴えた[1][3]。合衆国法典793条[注釈 1]e項違反(スパイ防止法に基づく国防機密漏洩罪)に問われ起訴されたが、ロサンゼルス連邦地方裁判所で公訴棄却の判決を受けた[1][3][2]。
以来、軍縮の研究を続けつつ、平和運動に参加、米国で核廃絶をめざす超党派の運動体「マンハッタン・プロジェクト2」を主宰する[1]。
日本との関係
編集著作
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “ダニエル エルズバーグ Daniel Ellsberg”. 現代外国人名録2012. 日外アソシエーツ (2012年). 2017年12月31日閲覧。
- ^ a b c d e “世界滅亡マシン 核戦争計画者の告白 著者略歴”. 岩波書店 (2020年). 2020年5月29日閲覧。
- ^ a b c “ダニエル エルズバーグ Daniel Ellsberg”. 20世紀西洋人名事典. 日外アソシエーツ (1995年). 2017年12月31日閲覧。
- ^ “ダニエル・エルズバーグ氏死去 ベトナム戦争の機密告発―米”. 時事通信. (2023年6月17日) 2023年6月17日閲覧。
- ^ “ヒロシマの記録1978 8月”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2017年12月31日閲覧。
- ^ “ヒロシマの記録1981 5月”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2017年12月31日閲覧。
- ^ “ヒロシマの記録1978 10月”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2017年12月31日閲覧。
関連項目
編集- ウォーターゲート事件 - エルズバーグが公訴棄却になった経緯に関連する。
外部リンク
編集- 公式ウェブサイト
- Daniel Ellsberg (@DanielEllsberg) - X(旧Twitter)
- “ヒロシマと世界:アメリカ人の原爆認識 投下正当化は危険な考え ダニエル・エルズバーグ氏 元国防総省職員・平和運動家(米国)”. 中国新聞. 中国新聞社 (2009年8月24日). 2017年12月31日閲覧。