ダイアトム(Diatome)はフランス産[注釈 1] のサラブレッド競走馬である。生産者と馬主はフランス人のギー・ド・ロチルド男爵で、フランス国内で走って良績をあげ、アメリカに遠征して当時の国際的な大競走の一つ、ワシントンDC国際ステークスに勝った。種牡馬として日本に輸入され、天皇賞馬クシロキングを出すなど好成績を残した。

ダイアトム
欧字表記 Diatome
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1962年
死没 1985年10月
Sicambre
Dictaway
母の父 Honeyway
生国 フランスの旗 フランス
生産者 ギー・ド・ロチルド男爵
馬主 ギー・ド・ロチルド男爵
調教師 Geoffroy Watson
競走成績
生涯成績 12戦6勝
獲得賞金 1,198,413フラン 及び 90,000ドル
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概要

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ダイアトムは、フランスの銀行家、ギー・ド・ロチルド男爵(イギリス風に発音すると、ロスチャイルド男爵)による生産馬である。代々ロチルド家が経営してきたモートリー牧場英語版で生まれたダイアトムは、競走馬としても男爵が所有し、アメリカ遠征を除いてずっとフランス国内で走った。

不運なことに、ダイアトムと同じ年生まれのフランス競走馬には、シーバードルリアンスという歴史的な名馬がいた。ダイアトムは数々の大レースでこの両馬に敵わなかったが、アメリカに遠征すると、当時の世界的な大レースの一つ、ワシントンDC国際ステークスでアメリカとカナダの代表馬を破った。

1967年に引退した後は生まれ故郷のモートリー牧場で種牡馬として過ごし、1975年に日本に輸出された。フランス時代の産駒からは、アイルランドのダービーを勝ったスティールパルス(Steel Pulse)が出た。日本では、天皇賞馬クシロキングなどが出た。

フランスでは同馬を記念して、サンクルー競馬場でダイアトム賞という競走が行われている。

血統

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血統表

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*ダイアトム Diatome血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 シカンブル系セントサイモン系
[§ 2]

Sicambre
1948 黒鹿毛 フランス
父の父
Prince Bio
1941 鹿毛 フランス産
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Biologie Bacteriophage
Eponge
父の母
Sif
1936 黒鹿毛 フランス産
Rialto Rabelais
La Grelee
Suavita Alcantara
Shocking

Dictaway
1952 黒鹿毛 フランス産
Honeyway
1941 Br[注釈 2] イギリス産
Fairway Phalaris
Scapa Flow
Honey Buzzard Papyrus
Lady Peregrine
母の母
Nymphe Dicte
1935 鹿毛 フランス産
*ダイオライト Diophon
Needle Rock
Nanaia Kircubbin
Lannette
母系(F-No.) 12号族(FN:12-e) [§ 3]
5代内の近親交配 Rabelais:S4×S5 = 9.38% [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ[1]およびnetkeiba.com[2]
  2. ^ 前者はnetkeiba.com[2]、後者は競馬ラボ[3]
  3. ^ JBISサーチ[1]およびnetkeiba.com[2]
  4. ^ JBISサーチ[1]およびnetkeiba.com[2]


父シカンブル

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シカンブルの母のシフ(Sif)は傑出した繁殖牝馬で、9頭の産駒のうち4頭がステークスウィナーになった。特に、父をプリンスビオとする全兄弟のシノネ(Senones)とシカンブル(Sicambre)がその代表で、シカンブルはジョッケクルブ賞(フランスダービー)、パリ大賞典の二大レースのほか、グランクリテリウムギシュ賞英語版グレフュール賞に勝った。

シカンブルは種牡馬になっても大成功をおさめ、産駒はイギリス、アイルランド、フランス、アメリカの4ヶ国のクラシックレースを勝った[8]

母の父リアルト(Rialto)はイスパーン賞に勝ち、凱旋門賞では2着だった馬である。シカンブルもリアルトもジャン・ステルンフランス語版の所有馬で、白地に水色の星をあしらったステルンの勝負服は人気があった。日本で種牡馬になった*スノッブ(Snob)やフランス2000ギニーの勝馬フリーマン(Free Man)もステルンの所有馬だった。ステルンはダイアトムが生まれた1962年の暮れに88歳で没している[9]

母ディクタウェイ

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ディクタウェイの母系はロチルド家が所有するモートリー牧場の代表する名牝系で、19世紀の活躍馬ジュスティシャ(Justicia)に遡ることができる。ジュスティシャは「2歳賞(Prix des Deux Ans、後のモルニ賞)」という大レースに勝ち、繁殖牝馬として数頭の重賞勝ち馬を産んだ[10]

ジュスティシャから数えて5代目にあたるニンフディクテ(Nymphe Dicte)は、父が日本に輸入されて大成功したダイオライトである。ニンフディクテはスピードのある競走馬で、グランクリテリウムマルレ賞英語版で2着になった。ニンフディクテが引退して繁殖牝馬になってすぐ、第二次世界大戦が始まり、フランスにはドイツ軍が進攻し、モートリー牧場の牝馬の多くがドイツ軍に接収されてドイツへ持ち去られてしまった。ニンフディクテもドイツに奪われ、ドイツで数頭の子を産んだ。戦後、これらの子とニンフディクテは無事にモートリー牧場に戻ってきたが、ドイツ時代の産駒の子孫から2歳チャンピオンのドラゴンブラン(Dragon Branc)やパリ大賞典に勝ったホワイトレーベル(White Label)が出た[10]

1952年生まれのディクタウェイ(Dictaway)は、1949年に死去した父の跡を継いだギー・ド・ロチルド男爵による生産馬である。男爵は、代を重ねて長距離偏重になっていたモートリー牧場の繁殖牝馬にスピードを加えるため、一部をイギリスに送りこんでイギリスの種牡馬と交配させた。ディクタウェイの母ニンフディクテもそのうちの1頭で、ニンフディクテにはイギリスのスプリンターであるハニーウェイ(Honeyway)が交配された。こうして誕生したのがディクタウェイである[10]

ハニーウェイはジュライカップコークアンドオラリーステークスといった6ハロン(約1207メートル)の大レースに勝ったスプリンターで、ほかにもキングジョージステークスなど5ハロン(約1006メートル)の重賞も勝っている。短距離馬であったが、例外的に10ハロン(約2012メートル)のチャンピオンステークスにも勝った[11]

ディクタウェイは1955年に仏1000ギニーに優勝し、クラシックウィナーとなった。ディクタウェイは引退後、モートリー牧場で繁殖牝馬となり、ダイアトムを産んだ[10]

競走馬時代

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競走成績

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  • 12戦6勝 2着5回 3着1回
  • 収得賞金:1,198,413フラン 90,000ドル[注釈 3]

主な成績

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1962年生まれのフランス馬

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ダイアトムの生涯戦績は12戦6勝だが、敗れた6戦のうち4戦はシーバードルリアンスに敗れたものだった。シーバードとルリアンス以外でダイアトムに先着したことがある馬は、ドラール賞でのタジュベナ(Tajubena)と、引退レースとなったサンクルー大賞典でのシーホークの2頭だけである。

2歳時(1964年)

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ダイアトムは2歳の時は1度しか出走していない[12]トランブレー競馬場フランス語版のトレパ賞(1800メートル)でデビューし、勝った[12]

3歳時(1965年)

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春シーズン

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3歳になったダイアトムは4月25日のノアイユ賞に出て、2着馬に2馬身半差をつけて勝った[12]

続くリュパン賞には、既にイギリスダービーの前売り本命と目されていたシーバードが本命馬として登場、さらにプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)の優勝馬カンブルモン(Cambremont)が出てきた[13]。ダイアトムはゴール前300メートルであっという間にシーバードにかわされてしまったものの、カンブルモンを半馬身抑えきって2着になった[13]。(勝ったシーバードは鞭も使わずにダイアトムに6馬身差をつけていた[13]。)

このあとダイアトムはジョッキークラブ賞(フランスダービー)に出た[12]。シーバードはイギリスのダービーへ向かったのでここには出て来なかった。かわって現れたのがルリアンス(Reliance)である[14]。ルリアンスはジョッキークラブ賞の前哨戦のひとつ、オカール賞を勝ってきた2戦2勝の馬だった[14]。このジョッキークラブ賞では、ルリアンスは先行して、直線の半ばで先頭に立った[14]。ダイアトムはこれを追い、3/4馬身差の2着になった[14]。着差はそれほど大きくなかったが、実際にはルリアンスの方は鞭を一度も使っていなかったので、ルリアンスの楽勝だと思われた[14]

次のレースは6月27日のパリ大賞典になった[15]。英仏の3歳馬が集う3000メートルのこのレースでも、最後はルリアンスとの争いになった[15]。ダイアトムはルリアンスに並びかけたが、ジョッキークラブ賞の時とは違い、ルリアンスには鞭が入った[15]。するとルリアンスはダイアトムをあっさり離し、1馬身差をつけてゴールした[15]

凱旋門賞

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こうしてダイアトムはこの年のフランスの3歳馬としては3番手の評価に甘んじることになった[12]。9月19日にはシーバード、ルリアンスともにいないプランスドランジュ賞を2馬身半差で楽勝し、フランスの最大のレースである凱旋門賞に挑むことになった。この年の凱旋門賞は、凱旋門賞史上初めて欧米の馬主が「揃って最高の馬を出走させた」(『フランス競馬百年史』)[16]

地元からは英国ダービー馬シーバード、フランスダービー馬ルリアンスの二強が揃って出走するうえ、アイルランドやソ連からもダービー馬が遠征してきたし、アメリカからもアメリカンダービー勝ち馬トムロルフが大西洋を渡ってきた[17]。ダイアトムにはフリーライド(Free Ride)という僚馬がいた[18]。同馬主の馬は一つの馬券とみなされて発売されることになっており、このダイアトムとフリーライドのカップル馬券は、シーバード、リライアンスに次ぐ3番人気で8.5倍だった[19][20]

この年のロンシャン競馬場では、前週から雨が降り続いた影響で「極限までスタミナを試される」(『凱旋門賞の歴史1965-1982』)馬場になった[21]。トムロルフ、シーバード、ルリアンスらが比較的先行したのに対し、ダイアトムは後ろに控えてレースを進めた[22]。中盤を過ぎて坂を下り始めると、有力馬はこぞって前へ出て行き、ダイアトムも後方から差を詰めた[23]。最後の直線では、英仏ダービー馬2頭の激戦との大方の予想に反し、シーバードのワンサイドゲームとなった[24]。余裕を持って手綱を緩めたシーバードは、それでも2着のルリアンスに6馬身の差をつけた[25]。ルリアンスから更に5馬身離れた3着にダイアトムが入り、後方から追い込んだフリーライドが短頭差で4着になった[26][16]

北米遠征

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この勝利によってシーバードは高い評価を受けることになったが、その評価を形成することになったのは、この凱旋門賞のあとでダイアトムがアメリカに遠征して力を証明したからである。ダイアトムは凱旋門賞のあとアメリカに渡り、11月11日にワシントンDC国際ステークスに出走した。アメリカ側の代表馬はローマンブラザー英語版で、この年既にアメリカの最強馬を決めるジョッキークラブ金杯をはじめ、ウッドワードステークスマンハッタンハンデキャップなどの大レースに勝っていた。北米代表のもう1頭はカナダのチャンピオンホース、ジョージロイヤル英語版で、カナダの大レースの他、アメリカでもサン・フアン・カピストラーノ・ハンデに勝っていた。他には、フランス時代から争ってきた同世代のカルヴァン(Carvin)も出走した[27][28]

最後の直線で、ローマンブラザーが先頭に立った。一方、ダイアトムは内に包まれて出るに出られなくなった。カルヴァンのほうが残り200メートルでローマンブラザーに並びかけ、差し切ろうというところで、ようやくダイアトムが馬群を抜け出した。ダイアトムはそこから爆発的な加速をみせて、最後の最後に短頭差だけカルヴァンを捉えて優勝した。ローマンブラザーは3着、ジョージロイヤルは4着だった。ローマンブラザーはこの年のアメリカチャンピオンに選ばれたが、凱旋門賞組が北米に遠征してこれを破ったことで、凱旋門賞でのシーバードの勝利はより価値が高まった[27]

4歳時(1966年)

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シーバードが凱旋門賞を最後に引退し、この世代ではルリアンスに期待がかかった[29]。が、結果的には、ルリアンスはこの年何度もアクシデントがあって、結局一度も出走せずに終わった[29]。このためダイアトムが古馬の代表格と目された[30][29]

ダイアトムは、3月にボイヤール賞(2000メートル)でシジュベール(Sigebert)の追撃を半馬身抑えきって勝った[31]。シジュベール(日本輸入種牡馬スノッブの半弟[32])は前年のダフニス賞英語版アンリフォワ賞の勝馬で[33][32]、凱旋門賞ではシーバードの前に着外に敗れていた[34]

ダイアトムは、4月に春最初の大レースであるガネー賞(2000メートル)に臨んだ[35]。ここでもダイアトムとシジュベールの争いになり、3/4馬身差でダイアトムが勝った[36][31][30]

6月のドラール賞(2500メートル)では、5キロ斤量の軽いタジュベナ(Tajubena)に不覚をとってしまい、3/4馬身差の2着に敗れてしまった[35]。7月にはサンクルー大賞に出走[35]。当時のサンクルー大賞典は3歳馬が初めて古馬と対戦する大レースで[注釈 4]、ダイアトムの側からすると1歳下の3歳勢を迎え撃つ立場だった。ダイアトムは61キロを背負って出走、7キロ軽い斤量の3歳馬シーホークに2馬身差で敗れてしまった[31][30][35]

ダイアトムはこのあと秋の凱旋門賞を目指す予定だった[29]。ところがレース前の調教中に腱を痛めてしまった[29][37]。この怪我が原因で、ダイアトムは以後出走ができなくなり、引退することになった。サンクルー大賞典で対戦したシーホークも同じ頃に怪我をして引退することになり[37][29]、「二強」のもう1頭、ルリアンスもこの年はアクシデントが続いて結局一度も出走できないまま引退となった[29]。この年の凱旋門賞は、開催直前に6日間連続で雨が降り、ひどい不良馬場で行われたのだが、この年の前半にダイアトムに2戦して2敗のシジュベールが逃げ、ゴール寸前まで粘って半馬身差の2着になった[注釈 5]。さらに、サンクルー大賞典でダイアトムよりも遅れた3着のベイトアン(Behistoun)はアメリカに渡ってワシントンDCインターナショナルステークスに優勝した[39]

評価

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ダイアトムは12戦して6回敗れたが、そのうち5戦は2着で、生涯で最悪の成績は凱旋門賞の3着である。3歳時の4敗はいずれもシーバードかルリアンスに敗れたもので、この両馬以外にダイアトムに先着した馬はいない。もしもシーバードとルリアンスという、フランス競馬史上に残る2頭の名馬と同じ年に生まれていなければ、ダイアトムはリュパン賞、フランスダービー、パリ大賞典、凱旋門賞というフランスの4大競走を勝っていたかもしれない。ダイアトムは古馬になってから敗れた2戦は、それぞれ5キロ、7キロ斤量が軽い馬に敗れたものだった。

ダイアトム賞

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ダイアトムを記念して、サンクルー競馬場ではダイアトム賞(Prix Diatome)という競走が行われている[40]

種牡馬時代

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フランス時代

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引退したダイアトムは、1967年からロチルド男爵のモートリー牧場で種牡馬になった。最初に活躍したのは、2世代目のスティールパルス(Steel Pulse)で、1971年の秋にフランスの2歳重賞、クリテリウム・ド・メゾンラフィット英語版 (G2) に勝った。スティールパルスはG1のグランクリテリウムにも出たが、ハードツービートに敗れて2着だった[41][42]

翌1972年には、ジャコミマ(Jakomima)が5月にイギリスでムシドラステークス英語版 (G3) に勝った。翌6月には、ダイアトムと同じギー・ド・ロチルド男爵の持馬ヘアドゥー(Hair Do)がフランスのリス賞英語版(G2)を勝った。さらに6月末にはスティールパルスがアイルランドダービー(G1)に勝った。この1972年にダイアトムはイギリスの種牡馬ランキングで6位に入っている[41][42]

その後ダイアトムの産駒からは、1973年から1974年にかけて、フランスのG2戦オカール賞ドラール賞に勝ったマルグイヤ(Margouillat)、リス賞(G2)に勝ったブルーダイヤモンド(Blue Diamond)が出た。ダイアトムは1974年までフランスで供用された後、1975年(昭和50年)1月に日本へ輸出された。その後もフランスに残った産駒の中から、キングオブマセドン(King of Macedon)などの活躍馬が出た[41][42]

日本時代

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日本には既にシカンブルの産駒としてシーフュリュー(Si Furieux)、ムーティエ(Moutiers)などが輸入され、種牡馬として複数のクラシック優勝馬を出して大成功していたが、競走馬としてはダイアトムはこれらよりも遙かに上の活躍馬だった。ダイアトムは北海道三石町本桐牧場に繋養された。日本での産駒がデビューしたのは昭和53年(1978年)で[注釈 6]、この年の新種牡馬チャンピオンになった。翌年、この世代が3歳(※当時の表記方法では「4歳」)になると、1月にファーストアモン京成杯に勝った。ほかにも、カミノカオル、ダイワプリマ、シャダイプリンセスがクラシック路線に進んでG1レースへの出走を果たした[41][42]

2世代目からはコマサツキが登場し、4歳牝馬特別(オークストライアル)に勝って、優駿牝馬(オークス)で1番人気になった。この日のオークスは重馬場になって、人気馬が総崩れとなり、10番人気のケイキロクが勝って大荒れになった。コマサツキは結局そのまま一度も勝てずに終わった[41][42]

3世代目の中からはハシノエースが日本ダービーで僅差の4着になった。このあとも毎年のように、クラシックレースへ出走する産駒が出たが、これらの初期の活躍馬を超える成績をおさめたものは出なかった[41][42]

クシロキング

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7世代目となる昭和57年(1982年)生まれの産駒の中に、ダイアトムの日本での最大の活躍馬となるクシロキングが出た。クシロキングは3歳(当時の表記では4歳)のクラシックシーズンには皐月賞に出たものの、22頭中の13着に終わった。この昭和60年(1985年)10月にダイアトムは死んだ。その後クシロキングは成長して連勝を始め、昭和61年(1986年)正月の金杯(GIII)で初めて重賞を制すると、3月の中山記念(GII)、4月の天皇賞(春)(GI)に勝って、ダイアトム産駒の日本での最初の大レースの勝ち馬となった。

父系の存続

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フランス時代の活躍馬、スティールパルスやマルグイヤは種牡馬になった。スティールパルスはオーストラリアに輸出されて種牡馬になり、VRCニューマーケットハンデ(G1)を連覇したレイザーシャープ(Razor Sharp)等を出した。ほかにもG2勝馬が種牡馬になり、1990年代までオーストラリアで父系を残している。マルグイヤはフランスで種牡馬になり、コンセイユドパリ賞英語版(G2)を勝ったアンカルカ(En Calcat)を通じて、1990年代まで父系を残した[注釈 7]。日本ではクシロキングやファーストアモン、ヤスナガなどが種牡馬になったが、特筆すべき産駒を出さないまま1990年代半ばに死亡している。

母の父

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ダイアトムが現役時代に同世代のライバルの1頭だったカルヴァン(Carvin)の半妹となるカルヴィニア(Carvinia)はダイアトムの産駒である[注釈 8]。このカルヴィニアの孫のナスルエルアラブ(Nasr El Arab)はフランスとアメリカでG1競走を4勝し、種牡馬として日本に輸入された。日本国内では、平成2年(1990年)にオークスに勝ったエイシンサニーの母の父がダイアトムである。このほか初年度産駒のピンクメリーが繁殖牝馬となり、札幌記念愛知杯を勝ったグレートモンテを産んだ[43][44]

各種指標

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  • フランス時代の産駒の勝利数
    • フランス 268勝(獲得賞金:13,779,266フラン)
    • イギリス 13勝(獲得賞金:109,311ポンド)
    • アメリカ 6勝(獲得賞金:40,260ドル)
  • LS(種牡馬ランキング)
    • 1972年イギリス6位
    • 1974年フランス9位
    • 1975年フランス14位
    • 1976年フランス8位
    • 1977年フランス17位
    • 1978年フランス8位
  • AD(産駒の勝利の平均距離) フランス:10.5[注釈 9]

主な産駒

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フランス

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日本

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脚注

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注釈

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  1. ^ 産国については、フランス産とする資料とイギリス産とする資料がある。ここでは状況からフランス産とした。詳しくはノートページ参照。
  2. ^ ハニウェイの毛色は、イギリスの競走馬血統書『Register of Thoroughbred Stallions Vol XIX』(De Gelsey 1950, p. 102) 及びアメリカジョッキークラブ公式の血統データベースサイト equineline.com[4]には“Brown (br)”と登録されている。日本語情報源では揺れがあり、JBISサーチ[5]は「青鹿毛」、『日本の種牡馬録vol.IV』(白井透 1982, pp. 371, 549)・『サラブレッド種牡馬銘鑑』第4巻 (「優駿」編集部 1977, p. 122) ・競馬ブックweb[6]は「黒鹿毛」、netkeiba.com[7]は「鹿毛」としている。
  3. ^ 『日本の種牡馬録vol.III』 (白井透 1977, p. 270) および『日本の種牡馬録5』 (白井透 1987) による。『サラブレッド種牡馬銘鑑』第4巻 (「優駿」編集部 1977, p. 122) では、ダイアトムの収得賞金を1,643,013フランと90,000ドルとしている。両者の差は444,600フランであるが、当時の大レースの一つ、サンクルー大賞典の賞金が50万フランであるから、これは相当な差異である。『サラブレッド種牡馬銘鑑』には凡例がないため詳細は不明である。一方『日本の種牡馬録』では詳細ではないものの凡例があり、なおかつ各年毎の収得賞金の内訳も掲載されていることから、『日本の種牡馬録』の数字を記載した。英語版記事(en:Diatome)は1,643,013フランとしている。
  4. ^ 2005年から3歳馬が出走できなくなった。
  5. ^ 勝ったのは日本にも輸入されたボンモー(Bon Mot)だった[38]
  6. ^ 実際には、これに先駆けて昭和48年(1973年)にダイアトムの産駒が少なくとも1頭、日本で走り、2勝をあげている。持込馬か外国産馬だと思われるが、詳細は不明[42]
  7. ^ 各馬の詳細は『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』 (サラブレッド血統センター 2003) 等を参照。
  8. ^ つまり、カルヴァンの母にダイアトムを配合して生まれたのがカルヴィニアである。
  9. ^ Average Distance、産駒の勝利した距離の平均値のことで、この値が10.5ハロン=約2100メートルであることを示す。

出典

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  1. ^ a b c 血統情報:5代血統表|ダイアトム(GB)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2022年8月1日閲覧。
  2. ^ a b c d ダイアトムの血統表 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2022年8月1日閲覧。
  3. ^ ダイアトムの種牡馬情報”. 競馬ラボ. 株式会社Do Innovation. 2022年8月1日閲覧。
  4. ^ FREE 5-Cross =Honeyway (GB)” (英語). equineline.com. The Jockey Club Information Systems, Inc.. 2022年11月21日閲覧。
  5. ^ Honeyway(GB)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2022年11月21日閲覧。
  6. ^ ハニウェイ(1941) | 血統・兄弟”. 競馬ブックweb. 株式会社ケイバブック. 2022年11月21日閲覧。
  7. ^ Honeyway | 競走馬データ”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2022年11月21日閲覧。
  8. ^ Martiniak, Elizabeth. “Rabelais” (英語). Thoroughbred Heritage. 2013年3月15日閲覧。
  9. ^ ギイ・チボー 2004, p. 191.
  10. ^ a b c d Erigero, Patricia. “The Rothschilds: Haras de Meautry” (英語). Thoroughbred Heritage. 2013年3月15日閲覧。
  11. ^ Peters, Anne. “Fairway” (英語). Thoroughbred Heritage. 2013年3月15日閲覧。
  12. ^ a b c d e A・フィッツジェラルド 1996, p. 10.
  13. ^ a b c A・フィッツジェラルド 1996, p. 5.
  14. ^ a b c d e A・フィッツジェラルド 1996, p. 6.
  15. ^ a b c d A・フィッツジェラルド 1996, p. 7.
  16. ^ a b ギイ・チボー 2004, p. 200.
  17. ^ A・フィッツジェラルド 1996, pp. 7–10.
  18. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 11.
  19. ^ A・フィッツジェラルド 1996, pp. 10–14.
  20. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 24.
  21. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 14.
  22. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 14-15.
  23. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 15.
  24. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 15-16.
  25. ^ A・フィッツジェラルド 1996, p. 16.
  26. ^ A・フィッツジェラルド 1996, pp. 14–16.
  27. ^ a b A・フィッツジェラルド 1996, p. 18.
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  30. ^ a b c ギイ・チボー 2004, p. 204.
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  32. ^ a b A・フィッツジェラルド 1996, p. 215.
  33. ^ horses master data Sigebert” (英語). GaloppSieger. 2022年11月20日閲覧。
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  41. ^ a b c d e f 白井透 1977, pp. 230–231.
  42. ^ a b c d e f g 白井透 1987, pp. 270–271.
  43. ^ 白井透 1991, pp. 356–357.
  44. ^ 白井透 1998, p. 562.

参考文献

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  • 白井透『日本の種牡馬録vol.III』サラブレッド血統センター、1977年。 
  • 白井透『日本の種牡馬録vol.IV』サラブレッド血統センター、1982年。 
  • 白井透『日本の種牡馬録5』サラブレッド血統センター、1987年。 
  • 白井透『日本の種牡馬録6』サラブレッド血統センター、1991年。 
  • 白井透『日本の種牡馬録8』サラブレッド血統センター、1998年。 
  • 「優駿」編集部 編『サラブレッド種牡馬銘鑑』 4巻、日本中央競馬会、1977年。 
  • A・フィッツジェラルド 著、草野純 訳『凱旋門賞の歴史(第三巻)1965-1982』競馬国際交流協会、1996年。 
  • ギイ・チボー 著、真田昌彦 訳『フランス競馬百年史』競馬国際交流協会、2004年。 
  • 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年。 
  • 山野浩一『伝説の名馬PartII』中央競馬ピーアール・センター、1994年。 
  • 山野浩一『サラブレッド血統事典』(6版)二見書房、1991年。 
  • サラブレッド血統センター 編『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』日本中央競馬会日本軽種馬協会、2003年。 
  • De Gelsey, Baron Henry, ed (1950). Register of Thoroughbred Stallions Vol XIX. Livesey Ltd 

外部リンク

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