ジャマイカ (軽巡洋艦)
艦歴 | |
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発注 | 1938年 |
起工 | 1939年4月28日 |
進水 | 1940年11月16日 |
就役 | 1942年6月29日 |
退役 | 1957年11月20日 |
その後 | 1960年11月14日売却 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 基準 8,770トン 満載 11,194トン |
全長 | 169.3 m (555.5 ft) |
全幅 | 18.9 m (62 ft) |
吃水 | 5.0 m (16.5 ft) |
機関 | アドミラリティ式三胴型重油専焼水管缶 4基、パーソンズ式ギアード・タービン 4基、4軸推進、(80,000 shp) |
最大速力 | 32,25ノット |
航続距離 | 15ノットで6,250海里 |
乗員 | 士官、兵員907名 |
兵装 | 50口径6インチ3連装砲 4基 45口径4インチ連装砲 4基 20mm連装対空機関砲 6基 2ポンド4連装ポムポム砲 2基 21インチ3連装魚雷発射管 2基 |
搭載機 (後に撤去) |
スーパーマリン ウォーラス2機 |
ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) はイギリス海軍の軽巡洋艦。クラウン・コロニー級軽巡洋艦(フィジー級軽巡)。 艦名は当時イギリス領だったジャマイカ島に由来する。
艦歴
編集1939年4月28日、ヴィッカース・アームストロング社バーロー造船所にて起工。 1940年11月16日、進水。
1942年6月29日、竣工。本国艦隊に所属し、第二次世界大戦に参加。11月にトーチ作戦を支援。
12月、軽巡洋艦「シェフィールド」とR部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。ロバート・L・バーネット少将は「シェフィールド」で指揮を執り、JW51B船団(護衛部隊指揮官ロバート・シャーブルック少将)の間接護衛を担当した。するとクメッツ提督が率いるドイツ艦隊が、虹作戦を発動して連合国輸送船団を攻撃してきた[1]。連合軍側は最小限の被害と引き換えに[注釈 1]、重巡「アドミラル・ヒッパー」と重巡「リュッツォウ」など撃退して勝利した[2]。英軽巡2隻は「ヒッパー」に機関室浸水被害を発生させて撤退に追い込み、味方と誤認して近づいてきたドイツ駆逐艦2隻を至近距離から砲撃して「フリードリヒ・エッコルト」を撃沈した[1]。
1943年7から9月にはポーツマスで改装を行う。同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が指揮するフォース2に所属した。フォース2は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、軽巡「ジャマイカ」、駆逐艦4隻で編成されていた。オストフロント作戦により出撃してきたドイツ戦艦「シャルンホルスト」は、すでに巡洋艦部隊(バーネット提督:シェフィールド、ベルファスト、ノーフォーク)と交戦してレーダーに損傷を受けていた[3]。戦場に到着したフォース2は、「シャルンホルスト」を圧倒して撃沈した[3][注釈 2]。
1944年2から3月にはJW57・JW58・RA58船団の護衛に参加。更にドイツ戦艦「ティルピッツ」を攻撃する空母数隻を支援した。1945年4月に近代化改装を受け、この時X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強、レーダーの新式化が行われた。同年9月には第5巡洋艦戦隊に参加し、インド洋方面へ展開。大戦終結後の1948年8月には第8巡洋艦戦隊に参加し、北アメリカ・西インド諸島方面へ展開した。
1950年7月には朝鮮戦争に参加し、支援砲撃や魚雷艇・ヤク戦闘機と交戦。1952年、本国に帰還し予備役に置かれる。 1953~54年地中海艦隊に転属。1957年11月20日に除籍。保管船となる。 1960年12月20日に解体開始され、1963年8月15日に解体が完了した。
画像
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クヴァールフィヨルズルで1943年10~11月撮影
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1943年5月撮影
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1944年1月1日撮影
登場作品
編集- 『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』
- 重巡洋艦「エクセター (HMS Exeter, 68) 」役を務めた。
脚注
編集注釈
編集- ^ 駆逐艦「アケイティーズ」沈没、掃海艇「ブランブル」沈没、駆逐艦1隻大破。
- ^ 北海の怒濤上英艦隊と激戰 獨乙の至寶戰艦沈没 ― 二万六千噸シャーンハスト[4]【倫敦廿六日公報聯合通信】獨乙艦隊の至寶シャーンハスト號は開戰以來北海の聯合國對露レンド・リース航路遮斷の爲め幾多の苦戰を重ね、常に無事であつたが、一昨クリスマスの日、有力なる英國近海防備艦隊と遭遇、敢然交戰の結果、遂に北海の氷山を枕とし深海に沈降した旨公表された/ 此海戰は、英國側の 勝利であり、飛行機が此戰爭に参加したかどうか等、其他乗組員の死傷等に關する詳報は未だ不明であるが、此獨戰闘艦二万六千噸を失へば、殘る戰闘艦は僅かに二隻、チルピッツ號(四万一千噸)、並にグニーセノウ號(二万六千噸)のみである(記事おわり)
出典
編集- ^ a b オスプレイ、ドイツ重巡 2006, pp. 18–20.
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 21.
- ^ a b オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, pp. 14–15.
- ^ “Yuta Nippō, 1943.12.27”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 03. 2023年9月16日閲覧。
参考文献
編集- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド1 German Battleships 1939-45 ドイツ海軍の戦艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2005年11月。ISBN 4-499-22898-0。
- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9。
- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド4 German Heavy Cruisers 1939-45 ドイツ海軍の重巡洋艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年5月。ISBN 4-499-22909-X。
- 「艦船名鑑WARSHIPS FILE1939~45」光栄 1997年3月24日初版
- 『世界の艦船』、1986年1月増刊号「近代巡洋艦史」、海人社