サロメ (ヘロディアの娘)

サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית‎ Shlomit)は、1世紀頃の古代パレスチナに実在した女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』や、新約聖書福音書などに伝わる。

サロメ
שלומית

出生 14年
死去 62年から71年の間?
配偶者 ヘロデ・フィリッポス英語版
父親 ヘロデ・フィリッポス英語版
母親 ヘロディア
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イエス洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。新約聖書では彼女の名を伝えておらず、学問上は単にヘロディアの娘と呼ぶことが多い。

伝承

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イエス(中央)と洗礼者ヨハネ(右)/ピエロ・デラ・フランチェスカ『キリストの洗礼』、1449年
 
ジャン・フーケヘロデ大王エルサレム占領』、15世紀後半
 
ヘロデ・アンティパス(右)とイエス(左中央)/アルブレヒト・デューラー、1509年
 
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス『荒野の洗礼者ヨハネ』、15世紀
 
洗礼者ヨハネ/レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者ヨハネ』、1513-1516年
 
エリヤ/ホセ・デ・リベーラ『エリヤ(Elijah)』、1638年

サロメは、新約聖書に登場する女性。父はユダヤヘロデ大王の王子ヘロデ・フィリッポス英語版で、母はヘロデ大王の孫ヘロディア。義父は、実父の異母兄弟であるヘロデ・アンティパス。サロメの母ヘロディアは、はじめヘロデ・フィリッポスの妻となりサロメをもうけたが、後に実父の異母兄弟であるヘロデ・アンティパスと恋仲になり離婚、ヘロデ・アンティパスの妻となった。このため、サロメはヘロデ・アンティパスの姪でもある。

サロメは、ヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、母ヘロディアの命により「洗礼者ヨハネの斬首」を求めた。

新約聖書には、サロメの名は記されていない。しかし、古代イスラエルの著述家であるフラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』には、「サロメ」という女性の名がある。この「サロメ」は、洗礼者ヨハネとの関係では大きく違うが、父母等の名が聖書の記事と一致する。そのため、同一人物であると考えられ、「サロメ」の名で呼ぶことが定着している。また、サロメは、新約聖書以外の文献の記述から、西暦14年頃に生まれ、その死は62年から71年の間と考えられるが、その生涯の詳細については定かでない。

以下では、双方の伝承について解説する。

新約聖書における記述

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「ヘロディアの娘」については共観福音書に記述がある[1]。これらの記述が歴史的事実に基づくか否かは確定されていない。

『マルコによる福音書』

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マルコによる福音書』には、以下のような記述がある。[2]

14さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。

17このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。19そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。

21ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

— マルコ 6:14-29

引用部分に関する注記:[3]

  1. (14節)ここで言う「ヘロデ」とは、ヘロデ・アンティパスのことである。
  2. (15節)エリヤは、旧約聖書に現れる預言者
  3. (17節)ピリポとしたのは、福音書記者の誤記。正しくはヘロデ・ボエートス(ユダヤ古代誌では「大祭司の娘のマリアンメの子のヘロデ」と呼ばれる人物)。
  4. (18節)洗礼者ヨハネの非難は、兄弟の妻であった女性との結婚は律法が「近親相姦」に該当するとして禁じていたことによる。(「レビ記」(18:16)参照)
  5. (21節)ヘロデ・アンティパスの生年は、紀元前20年かそれ以前と推定されるのみで、誕生日は不明である。

第一と第二段落のつながりにやや不自然さがある。その他の点も考慮すると、

  • 洗礼者ヨハネがヘロデとヘロディアの結婚の不道徳を厳しく批判した。
  • 祝宴の場でヘロディアの娘の舞の褒美として、ヘロディアがヨハネの断首を求め、実行された。

という内容の伝承があり、それをマルコ[4]がこの形に編集したと考えられる。

『マタイによる福音書』

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マタイによる福音書』では以下のような記述がある。

1そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。

3というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。

6さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。

12それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

— マタイ 14:1-12

マタイはマルコのいささか冗長な文章を簡潔にしており、ギリシア語としても良質な記述である。ヘロデを四分封領主と訂正しているが、「フィリッボス」の誤りには気づいていない。なお、末尾でヨハネの弟子たちが「イエスに報告した」としているのは、マタイの編集句とされている。

以上を総合すると、マタイはこの記事では全面的に『マルコによる福音書』に依存しており、追加の伝承・資料を持っていなかったことは明白である。

『ルカによる福音書』

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ルカによる福音書』では以下のような記述がある。

7さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、8またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。9そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。 — ルカ 9:7-9

ルカも『マルコによる福音書』に全面的に依拠している。

マタイと同様に『マルコ』の文章を大幅に改善しているが、重要なのはヘロディアの娘への言及を含めてヨハネの死に関する具体的記述を完全に削除している点である。これはルカの

  • 洗礼者ヨハネの活動への言及を極力避ける傾向[5]
  • この記述が、彼の福音書には不可欠とは考えなかった
  • 温厚で調和を好む性格から血なまぐさい記述を嫌った

等の結果である。

なお、マタイとルカの福音書では版によってヘロディアの前夫の名前が書いてないものも存在しており、『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II』では、へロディアの前夫としてフィリッポスの名前が書かれているかどうかについて、

  • 『マタイの福音書』ではコーデックス・ベーザエの版では前夫名が書いてないが、ティシェンドルフによって括弧つきで書き込まれた。
  • 『ルカの福音書』ではテクストゥス・レケプトゥスには前夫名があるがネストレとアーラントに削除されている。

とある[6]

ヨセフスによる記述

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フラウィウス・ヨセフスがその著書『ユダヤ古代誌』(93年 - 94年頃完成)において、以下のような記述を行っている。[7]ここでも、〔 〕は原文にない訳者による補足。

第18巻5章2節

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ここでは、洗礼者ヨハネの処刑が記述されている。途中を一部省略したが、節の始めと末尾部分を引用する。

さて、ユダヤ人の中にはヘロデ〔・アンティパス〕の軍隊の壊滅は、洗礼者と呼ばれたヨハネに対して彼が行ったことへの神による罰であり、全く義にかなった事だと考える者たちがいた。というのも、ヘロデは彼を殺害したのである。が、ヨハネは、正しい人であり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、また神への敬虔を尽くせと命じ、その証に洗礼を受けに来るように言っていたのである。〔中略〕さて、人々が群れをなしてヨハネの許に押し寄せ、彼の言葉に大きな感銘を受けていた。ヘロデは、ヨハネの民衆への大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱へと繋がることを恐れた。彼は、ヨハネがもたらすかもしれない一切の悪影響を防止し、一人の人間の命を惜しんだが故に、ことが起きてから手遅れだったと後悔する様な困難に自らを陥らせぬためには、殺してしまうのが最善だと考えた。そこでヘロデは、その猜疑心を払拭すべく、囚人を、既に私が言及した城である、マカイロスに送り、そこでヨハネを殺害した。で、ユダヤ人の間に、彼の軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神が彼を不快に感じている証だとの説が生じたのである。

— 『ユダヤ古代誌』第18巻5章2節

すなわち、ヨセフスによればヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断である。従って、ヘロディアや、その娘は処刑にかかわっていないことになる。また、ヨハネの処刑はマカイロス要塞で行われており、この点もマルコが利用した伝承とは異なっている。

第18巻5章4節

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ここではヘロデ大王家関連の人物関係が記述されている。その途中部分のみを引用する。[8]

(前略)しかし、彼らの姉妹のヘロディアは、ヘロデ大王の息子で、高位の祭司シモンの娘のマリアムネが生んだヘロデ〔・ボエートス〕と結婚し、サロメという娘ひとりをもうけた。娘が生まれた後、これはわが国の律法の相容れぬことであるが、娘を連れて、夫が存命であるにもかかわらず離婚して、ヘロデ〔・アンティパス〕と結婚した。彼は前夫の異母兄弟であり、ガリラヤの四分封領主であった。さて、その娘サロメはヘロデ〔大王〕の子でトラコニティスの分封領主であるフィリッポと結婚したが、子が出来ないうちに彼は死んだ。ヘロデ〔大王〕の子で、アンティパスの兄弟であるアリストブラスが彼女と結婚した。二人には、ヘロデ、アグリッパ、アリストブラスの三人の息子がうまれた。これらは、ファサエラスとサランピシオの子孫である(後略)

— 『ユダヤ古代誌』第18巻5章4節

ここに記述されているサロメが

  • ヘロディアの娘である
  • 母の再婚で、伯叔父に当たるヘロデ・アンティパスの子となった

ことが福音書の記事と一致することから、洗礼者ヨハネの首を求めた娘であるとされた。

芸術作品の素材としてのサロメ

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その特異性もあって、古くから多くの芸術作品の素材となってきた。ただし、特に取り上げられることの多かった時期が鮮明である。以下、その点を考慮して時代順に列挙する。[9]

近代以前

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ティツィアーノ洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』、1515年頃。ドーリア・パンフィーリ美術館ローマ)所蔵。
 
アロンソ・ベルゲーテ『サロメ』、1512年-16年。
 
ルーカス・クラナッハ『サロメ』、1531年。
 
カラヴァッジオ『洗礼者の首を持つサロメ』、1605年。
 
カルロ・ドルチ『ヨハネの首を持つサロメ』、17世紀。

洗礼者ヨハネの刑死はイエスの生涯の物語で重要な場面であるため、西洋絵画では古くからそれに関する絵画が描かれてきた。特にルネサンス期からバロック期にかけて、イタリアオランダなどの画家たちによって、きわめて多くの作品のモティーフとされた。

なお男性の首をもつ女性のモティーフにはユディトがあるが、ユディトがしばしば剣をさげかつ首はそのまま持たれるのに対して、サロメは剣を持たずヨハネの首は皿に載せられて描かれるので注意が必要である。

以下、主なものを年代順に列挙する。

13世紀まで

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14世紀

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15世紀

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16世紀

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17世紀

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しかし、17世紀後半からの「科学革命の時代」あるいは「啓蒙の時代」には、画家たちの関心はこのモティーフから急速に離れてゆき、この傾向は、その後およそ200年にわたって続くことになる。

19世紀後半以降

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19世紀後半から20世紀初頭のいわゆる「世紀末芸術」の中で、サロメは各分野の素材として、再び大きな関心を呼ぶことになる。

絵画

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G.モロー「サロメ」、1876年。
 
G.モロー「牢獄のサロメ」、1873-76年。国立西洋美術館(東京)所蔵。

絵画作品としては、以下のようなものがある。19世紀に入ると聖書や神話に題材をとる作品は再び増加するが、とりわけギュスターヴ・モロー(後述)の一連の作品は著名である。

小説

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エロディア
ギュスターヴ・フロベール作の短編小説。1877年出版『三つの物語』の一つである。洗礼者ヨハネの死は彼の影響力を恐れたヘロディアによるものと描写されている。

オペラ

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ジュール・マスネ作品
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ジュール・マスネが上記のフロベール作の小説を元に、1881年に作曲したオペラ。台本は、ポール・ミレーグレモンザマディーニの共作である。

ワイルドによる戯曲化

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「孔雀スカート」。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のオーブリー・ビアズリーによるイラストレーション(1892)。

こうした傾向を一段と顕著にさせたのが、オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』(1893年)である。これはフランス語で執筆され、1896年パリで初演された。

1894年出版の英語版は、アルフレッド・ブルース・ダグラスの翻訳とされ、オーブリー・ビアズリーの挿絵が添えられている。

「サロメ」を全体の主人公として前面に出し、洗礼者ヨハネに強く魅せられたサロメがその誘惑を拒絶するヨハネに対して、ヘロデの要望で「7つのヴェールの踊り」を舞った代償としてヨハネの首を求める。最終場面では、その首にサロメが口づけする衝撃的場面があり、その上演はスキャンダルとなった。

一晩の演目としてはいささか短すぎる作品ではあるが、現在でも日本を含む各国で上演されている。

ワイルド以後

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ワイルドの戯曲化と20世紀における映画などの新しい分野の開拓で、サロメはいろいろな芸術作品で素材として扱われるようになった。主なものを以下に挙げる。詳細についてはそれぞれの項目を参照のこと。

文学

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小説
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Skinny Legs and All
現代的な少女「サロメ」が実質的な主人公である、いささか奇人とも言われるアメリカの作家トム・ロビンスの第五作となる小説(1990年)。その主な筋は、マンハッタンにある国連の建物の向かいに、ユダヤ人とアラブ人の二人がレストランを開くというもの。セクシャルな魅力を持つサロメがレストラン内のクラブで踊ることになる。[10]
『サロメの乳母の話』
塩野七生の短編小説。サロメを幼児期から見てきた乳母が「事件」の後にサロメについて語る。同様な趣向の短編作品集『サロメの乳母の話』に収録[11]
『サロメ』
原田マハによる長編小説、文藝春秋、2017年/文春文庫、2020年。

オペラ

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リヒャルト・シュトラウス作品
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リヒャルト・シュトラウスが、ワイルドの戯曲のヘドヴィッヒ・ラハマンによるドイツ語訳をほぼそのまま台本にして、一幕のオペラを作曲した。1905年ドレスデンで行われた初演は大成功し、シュトラウスはこの作品でオペラにおいても高く評価されることになった。 現在でも、『ばらの騎士』と並ぶ人気作で各地で上演されており、ドイツ語圏の主要な歌劇場では多くがレパートリーにしている。

バレエ音楽

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ワイルドが導入した「7枚のヴェールの踊り」と、上記のシュトラウスによるオペラの成功を受けてバレエ作品化が行われている。主なものを以下に示す。

フローラン・シュミット作品
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マスネの弟子であったフローラン・シュミットが『サロメの悲劇』というバレエ音楽を1907年に作曲している。この作品は1時間ほどの作品で20人ほどの小規模なオーケストラ向けのものである。

シュミットは後にこの作品を素に、30分ほどの同題の交響詩を作曲した。この交響詩は現在も頻繁に演奏され、多数のレコード・CD録音がある。

伊福部昭作品
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舞踊音楽『サロメ』は1948年伊福部昭貝谷バレエ団創立10周年記念として作曲したバレエ作品であり1987年に演奏会用の曲として手が加えられた。

ペーター・ディヴィーズ作品
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サロメ』はオランダの振付師フレミング・フリント(Flemming Flindt)が企画したバレエ作品。作曲はペーター・ディヴィーズ(Peter Maxwell Davies)で、1978年コペンハーゲンで初演された。この公演はオランダ国営放送が収録して、テレビ放映されている。

ポピュラー音楽等

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また、歌詞に「サロメ」が登場する曲には次のようなものがある。

映画

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映画が発明されると、サロメは格好の題材とされた。多くはワイルドの戯曲を元にしているが、関連作品は現在までに50作品以上になる。[12]

主なものを以下に列挙する。

アニメーション作品

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コミック作品

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脚注

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  1. ^ この部分の記述は新約聖書学でほぼ定説となっている二資料仮説を前提としている
  2. ^ 「マルコによる福音書」(15:40)で、イエスの十字架刑の目撃者の一人として記される「サロメ」は全くの別人。(彼女については、サロメ (イエスの弟子)を参照のこと)。
  3. ^ ここでも多くを訳者による原注によっている
  4. ^ 現代では著者不明とされる福音書記者を便宜的に伝統の名前で呼ぶ。マタイ、ルカも同様
  5. ^ 洗礼者ヨハネを師と仰ぐ「ヨハネ教団」は1世紀末まで存続しており、福音書が書かれた時期(1世紀の後半)には原始キリスト教会と対立関係にあったことに由来する。なお、マタイにもそれは顕著である
  6. ^ E・シューラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II』第17節「ヘロデ・アンティパス」、古川陽 訳、株式会社教文館、2012年、ISBN 978-4-7642-7352-8、P83(註19)。
  7. ^ 訳文は執筆者による試訳。さしあたって、W. Whiston translation at Project Gutenberg に依ったが、不適切な加筆には変更がある。
  8. ^ ヘロデ大王には解っているだけで10人の妻がいて、少なくとも息子が10人、娘が5人いる。その中には同名の者も多く、文献により多少の違いが見られる。
  9. ^ 列挙に当たっては英語版Wikipediaの対応項目を参考にした。
  10. ^ 初版本:ハードカヴァー ISBN 0553057758 、ペーパーバック ISBN 0553289691 いずれも Bantam Books
  11. ^ 「サロメの乳母の話」(中央公論社、1983年/新潮文庫(新版)、2003年 ISBN 410118111X
  12. ^ IMDBのリストによる。但し、これらの中にはシュトラウスのオペラの映像作品など狭義の「映画」とはいえないものも含まれている。

関連項目

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参考文献

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  • 『新約聖書』