ケビン・カレン
ケビン・カレン(Kevin Curren, 1958年3月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。1984年の全豪オープンと1985年のウィンブルドンで、4大大会男子シングルスに2度の準優勝がある。ダブルスでは、1982年の全米オープン男子ダブルスでスティーブ・デントン(アメリカ)と組んで優勝し、混合ダブルスではアン・スミス(アメリカ)とのペアで3勝を獲得した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。
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ケビン・カレン | ||||
基本情報 | ||||
国籍 |
南アフリカ共和国 アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 南アフリカ・ダーバン | |||
居住地 | アメリカ・テキサス州 | |||
生年月日 | 1958年3月2日(66歳) | |||
身長 | 185cm | |||
体重 | 77kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1979年 | |||
引退年 | 1993年 | |||
ツアー通算 | 31勝 | |||
シングルス | 5勝 | |||
ダブルス | 26勝 | |||
生涯通算成績 | 768勝484敗 | |||
シングルス | 338勝235敗 | |||
ダブルス | 430勝249敗 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 準優勝(1984) | |||
全仏 | 2回戦(1992) | |||
全英 | 準優勝(1985) | |||
全米 | 4回戦(1981・90) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト4(1981) | |||
全仏 | ベスト8(1984) | |||
全英 | ベスト4(1982・83) | |||
全米 | 優勝(1982) | |||
優勝回数 | 1(全米1) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 5位 | |||
ダブルス | 3位 | |||
来歴
編集1979年にプロ入り。1981年に地元南アフリカ・ヨハネスブルグの大会でツアー初優勝を果たす。1984年の全豪オープンで、カレンはマッツ・ビランデルとの決勝戦まで勝ち上がった。当時の全豪オープンは、年末の12月に開催されていた。同大会では1981年と1982年に、南アフリカ出身のテニス選手としてヨハン・クリーク(年齢もカレンと同じ年)が大会2連覇を果たしていた。カレンはクリークに続く快挙を狙ったが、 ビランデルに 7-6, 4-6, 6-7, 2-6 で敗れ、このスウェーデン人選手の大会2連覇を阻止できなかった。
カレンの名前が最も記憶されている場面は、何と言っても1985年のウィンブルドン男子シングルス決勝戦である。大会第8シードだったカレンは、上位シード選手を立て続けに破って勝ち進み、まず4回戦でステファン・エドベリ、準々決勝では第1シードのジョン・マッケンロー、そして準決勝ではベテランのジミー・コナーズを破って自身2度目の4大大会決勝進出を果たした。その決勝戦では、世界ランキング38位のノーシードから勝ち上がった西ドイツのボリス・ベッカーと対戦することになった。ところが、カレンはこの試合でベッカーの勢いに飲み込まれてしまい、3-6, 7-6, 6-7, 4-6 のスコアで敗れてしまった。勝者となったベッカーは「17歳7ヶ月」の大会最年少優勝記録を樹立し、それを契機に西ドイツのスーパースターとなる。カレンはベッカーの出発点を見守る役に回ってしまい、とうとう4大大会の男子シングルスで優勝できずに終わった。
カレンの最後の4大大会出場は1992年全米オープンで、7年前に苦杯をなめたベッカーに1回戦で敗退している。1993年3月に出身地の南アフリカ・ダーバンの大会での初戦敗退を最後に、カレンは35歳で現役を退いた。
引退後のカレンは、同じ年のライバルであったヨハン・クリークとダブルスでペアを組み、ウィンブルドンの「45歳以上の選手による男子ダブルス」部門で3連覇を果たしている。