グラントハイツ
グラントハイツ(Grant Heights)は、1947年(昭和22年)から1973年(昭和48年)まで東京都練馬区に存在したアメリカ空軍の家族宿舎。
概要
編集1942年(昭和17年)、日本陸軍は帝都防空を目的に成増飛行場をこの地に建設した。戦後になって同飛行場を接収した連合国軍(GHQ)は、この地にアメリカ陸軍家族宿舎を建設した。その物資などの輸送のために軍用輸送線が東武啓志線としてこの地に延伸し「ケーシー駅(啓志駅)」ができた。
その後、1958年(昭和32年)にはアメリカ空軍第5空軍が管理を引き継ぎ、後に、アメリカ空軍第34空軍の家族宿舎 (Grant Heights 34th Air Base Housing Area) となった。
正式名は、時期により「グラントハイツ (Grant Heights)」、「グランド・ハイツ住宅地区」、「グラント・ハイツ住宅地区 (Grant Heights Housing Area)」と推移する。名称の由来は、第18代アメリカ大統領のグラント将軍にちなむ。グランドは誤り。
敷地面積約1.81 km2、建物数約730、入居家族世帯は1,284で、各種施設があり、多くの日本人も、メイド、ボーイ、運転手として働いた。
現在は、東京都練馬区光が丘の全域およびその周辺地域である。
沿革
編集1940年代
編集1950年代
編集- 1952年(昭和27年)
- 7月26日 - 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定第2条により、旧JPNR22の施設について、米軍施設名「グランド・ハイツ住宅地区」(FAC(施設)番号3006)として、練馬区土支田町、高松町、田柄町、春日町、旭町の一部が、米軍無期限使用施設に指定される[2]。
- 9月1日 - 区長選任制が導入され、練馬区長が不在となり、これ以降グラントハイツ返還が棚上げ状態となる。
- 1954年(昭和29年) 3月11日 - 一部建物を接収解除とする[3]。
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年) 2月12日 - 建物その他各種設備が、追加接収される[7]。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
1960年代
編集- 1961年(昭和36年) 4月19日 - 日米政府間協定上の米軍施設名が「グラント・ハイツ住宅地区」に改まる[13]。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年) 3月11日 - 民有地の一部を接収解除とする[15]。
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
1970年代
編集施設
編集- 出入口
- 正門 - 現在の赤塚新町小学校付近
- 成増口 - 現在の光が丘公園地域安全センター付近
- 土支田口 - 現在の光丘高校南側
- 高松口 - 現在の光が丘わかば幼稚園付近
- 田柄口 - 現在の光が丘秋の陽小学校南側
- 鉄道
- ヘリポート - 正門南に所在。現在の赤塚新町小学校付近。
- 診療所 - 現在の光が丘駐車場付近
- PX - 現在の光が丘図書館付近など3か所
- 生活用品を販売。免税店。
- 礼拝堂 - 現在の光が丘公園憩いの森付近
- 学校 - 現在の光が丘公園内、光丘高校口付近
- 消防署 - 現在の光が丘公園野球場付近
- プール - 現在の光が丘公園野球場付近
- 映画館 - 現在の光が丘図書館付近
- ゴルフ練習場 - 現在の光が丘公園陸上競技場付近
- 将校クラブ - 現在の夏の雲公園北端付近
- 下士官クラブ - 成増口南東に所在。
- モータープール - 現在の光が丘第七小学校付近
- バスターミナル - 現在の田柄第三小学校付近
- 空調施設内燃工場 - 現在の光が丘第十一保育園付近
- 巨大な煙突と、啓志線の貨物引込線があり、石炭搬入ホームがあった。
- 汚水処理場 - 現在の光が丘公園牛房口付近
汚水処理場問題
編集武蔵健児学園の跡地に、汚水処理場が設置された。
1947年(昭和22年)に作られた地上散布濾床方式の汚水処理場は、悪臭やハエの大量発生があった。
1966年(昭和41年)に、周辺住民から臭気とハエの発生の防止について改善の申し入れが、東京都を通じて防衛施設庁へあった。
この問題につき、1968年(昭和43年)の第58回国会(参議院)および1969年(昭和44年)の第61回国会(衆議院)で取り上げられ、1970年(昭和45年)度の防衛施設庁予算に問題解決費が算入された。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)。
- ^ 同日、外務省告示第34号
- ^ 昭和29年8月11日、外務省告示第93号
- ^ 昭和30年4月15日、外務省告示第46号
- ^ 昭和31年4月6日、外務省告示第31号
- ^ 昭和31年8月25日、外務省告示第96号
- ^ 昭和32年5月8日、外務省告示第45号
- ^ 昭和34年11月14日、外務省告示第31号
- ^ 昭和34年11月18日、外務省告示第112号
- ^ a b c d e 山下博史『光が丘公園』、東京都建設局公園緑地部監修・東京公園文庫52、東京都公園協会、2014年
- ^ 昭和35年4月26日、外務省告示第31号
- ^ 昭和35年8月31日、外務省告示第88号
- ^ 同日、調達庁告示第4号
- ^ a b c 昭和38年3月15日、防衛施設庁告示第2号。国有、民有の土地約4,068m2、建物約69m2。
- ^ 昭和38年7月10日、防衛施設庁告示第11号
- ^ 昭和39年12月4日、防衛施設庁告示第16号。国有建物約222m2
- ^ 昭和39年8月26日、防衛施設庁告示第12号。民有建物約87m2
- ^ 昭和40年3月1日、防衛施設庁告示第4号。公有、民有土地約3,401m2
- ^ 昭和40年10月18日、防衛施設庁告示第14号。国有建物約1,288m2
- ^ 昭和40年10月18日、防衛施設庁告示第14号。国有建物約4,471m2、国有工作物一式
- ^ 昭和41年7月5日、防衛施設庁告示第8号。民有建物約480m2
- ^ 昭和41年7月29日、防衛施設庁告示第9号。国有建物約17m2
- ^ 昭和42年2月14日、防衛施設庁告示第2号。国有建物約595m2
- ^ 昭和44年8月20日、防衛施設庁告示第17号。国有地約17,251m2、国有建物約6,400m2、国有工作物、国有樹木91本。昭島住宅地区内家族住宅の代替として提供。
- ^ 昭和44年12月16日、自治省告示第197号
- ^ 昭和48年4月3日、防衛施設庁告示第5号。国有地約298,596m2、民有地約368m2、国有建物約38,493m2、給配水、汚水処理施設等
- ^ 昭和49年1月22日、防衛施設庁告示第1号。国有地約487,000m2、国有建物約58,466m2、工作物等
- ^ 昭和49年1月22日、防衛施設庁告示第1号。国有地約1,034,059m2、公有地約9,283m2、民有地約2,452m2、民有地(イーズメント)約368m2、国有建物約107,484m2および付帯設備等が返還された。返還に伴う代替施設として、横田飛行場周辺の土地等を米軍へ追加提供した。
関連項目
編集外部リンク
編集- 練馬区における戦災の状況(東京都) - 総務省
- グラントハイツ - 練馬区