クロード・シャンピオン
クロード・シャンピオン(Claude Champion、1942年 - )は、スイスの映画監督、舞台演出家、テレビ演出家である。
クロード・シャンピオン Claude Champion | |
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生年月日 | 1942年 |
国籍 | スイス |
来歴・人物
編集1942年に生まれる。1963年、21歳のときに習作短篇『Les Pluies de l'été』を撮り、翌1964年、フランス・パリでセルジュ・ルーレ監督の助監督となる。
1967年、25歳のときに、当時ドキュメンタリーを撮っていた同い年のイヴ・イェルサンらとともに映画製作会社「ミロス・フィルム」をヌーシャテル州の山村レ・ヴェリエールおよびヴォー州ローザンヌに設立、オムニバス映画『Quatre d'entre elles』(1967年 - 1968年)を同社で製作、イェルサン、フランシス・ロイセール、ジャック・サンドスとともに劇映画の演出をする。シャンピオンが監督した『16 ans - Sylvie』篇には、前年、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画『メイド・イン・USA』(1966年)でドリス・ミゾグチ役を演じた小坂恭子が出演している。その後同社でのシャンピオンは、1971年に短篇映画『Jardin』を製作、脚本を書き、撮影もし監督をした。
1970年、イェルサンらと製作会社「ネモ・フィルム」(チューリッヒ)の共同設立に参加。同社はドイツ語圏の映画監督マルクス・インホフやフレディ・ムーラーらの作品をおもに製作した。1974年、ジュネーヴのフランス語圏向けテレビ局テレヴィジオン・スイス・ロマンド(TSR)でフリーランスの演出家として活動を始める。イェルサンらと、1977年、製作会社「フィルム・エ・ヴィデオ・コレクティフ」をローザンヌ近くのキュブランに設立する。
1979年、フランスのグルノーブルからレマン湖畔に移住してきたヌーヴェルヴァーグの映画監督ジャン=リュック・ゴダールと、そのパートナーアンヌ=マリー・ミエヴィルと交流が始まる。ゴダールの商業映画復帰第一作『勝手に逃げろ/人生』に、シャンピオンは俳優として参加。イザベル・ユペールやナタリー・バイらフランスのスターと共演したわけだが、ロラン・アムシュトゥッツら地元の俳優も多く出演しており、撮影にレナート・ベルタ、録音にリュック・イェルサン、撮影助手としてジャン=ベルナール・ムヌーらがつとめ、ヴォー州の映画史の流れが変わる瞬間に現場で立ち会った。
映画やテレヴィジオン・スイス・ロマンドでのテレビ演出のかたわら、舞台も演出している。1984年には、ローザンヌのオンズ劇場でアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』を翻案した『Tout Ubu』を共同演出、翌1985年には、ジュネーヴのラ・コメディ座でモリエール作『いやいやながら医者にされ』をベノー・ベソン主演で演出した。
ローザンヌの新聞「ル・ヌーヴォー・コティディアン(Le Nouveau Quotidien')」紙に映画日誌を連載した(1991年 - 1993年)。1995年から、ビュシニー=プレ=ローザンヌにあるヴォー州立ローザンヌ美術学校映画学科で教鞭をとっている。現在は、スイス作家協会(SSA、所在地ローザンヌ)の代表。
フィルモグラフィー
編集- 特筆のないものはすべて監督作
- 参加監督クロード・シャンピオン、フランシス・ロイセール、ジャック・サンドス、イヴ・イェルサン、製作会社ミロス・フィルム
- 『16 ans - Sylvie』篇 監督 撮影エルヴァン・ユペール、出演マリー・アドシード、小坂恭子 (女優)
- Yvon Yvonne 短篇 1968年
- C'était un dimanche en automne(それは秋のとある日曜日だった) 短篇 1970年
- Le Moulin develey sis à la quielle 短篇 1971年
- Jardin(庭) 1971年 監督・脚本・撮影 製作会社ミロス・フィルム
- Le Pays de mon corps 長篇16ミリ 1973年
- Marie Besson 短篇 1974年
- Quand il n'y a plus d'Eldorado(黄金郷がもうないときに) 短篇 1980年
- 勝手に逃げろ/人生 Sauve qui peut (la vie) 1980年 出演(Stranger役)
- 監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、共同脚本ジャン=クロード・カリエール、アンヌ=マリー・ミエヴィル
外部リンク
編集- クロード・シャンピオン - IMDb
- Claude Champion - SSAのプロフィール