ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年アメリカ合衆国発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。

ガトリング砲
1865年型ガトリング砲
種類 速射砲
原開発国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
運用史
配備期間 1862年-1911年
配備先 オーストリア=ハンガリー帝国
イギリス帝国
カナダの旗 カナダ
フランスの旗 フランス
日本の旗 日本
ペルーの旗 ペルー
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
関連戦争・紛争 南北戦争, 太平洋戦争, 米西戦争, 日露戦争,戊辰戦争
開発史
開発者 リチャード・ジョーダン・ガトリング
諸元
重量 77.2 kg (砲架、弾倉、弾薬を除く)
全長 107.9cm
銃身 67.3cm
要員数 4人
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複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。

固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲(Gatling gun)」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「rotary cannon」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。

歴史と構造

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ミトラィユーズ砲フランス軍事博物館所蔵)

原始的な手銃の時代から、多数の銃身を並べて斉射するアイデアが存在し、ガトリング砲が登場した時期にもミトラィユーズ砲(日本では「蜂巣砲」と呼んだ[1])として知られる多砲身の「斉射砲」が存在していた。しかし、斉射砲は構造が複雑すぎたため信頼性が低く、普及しなかった。

ガトリング砲が発明された当時のアメリカは、欧州に比して軍事的後進国だったため、依然として戦列歩兵式の歩兵運用が続いており、敵兵は密集した陣形を組んで向かってくる存在と認識されていた。こうした密集した敵兵に対しては、大砲から霰弾などの対人弾を浴びせる攻撃が昔から行われていた。そこで、ガトリングのアイデアは、銃身を環状に並べて回転させ、金属薬莢を使用する後装式の閉鎖機構と給弾機構をこれに組み合わせたものであり、それまでの斉射砲とは全く異なる構造の「連発砲」だった。

ガトリング砲には複数の砲身が環状に配置され、人力でクランクを回転させると、連続して給弾・装填・発射・排莢のサイクルが進行する構造であり、射撃は斉射ではなく連続して行われた。銃身を複数にしたことで、1本当たりの発射頻度は低くて済むため、後に開発された単砲身の機関砲・機関銃の欠点であった、過熱によって生じる様々な問題(ライフリングの急速な磨耗や弾頭周囲からのガス漏れによる作動不良など)が発生しにくい構造になっている。一方で、多砲身のため重く設置・操作には複数の兵士が必要で、小型砲並みのサイズとなり軽便さに欠けるという欠点があった。

初期のガトリング砲は、真鍮製の薬莢を用いる弾薬が普及していなかったため、紙に包んだ鉛玉を鉄製の薬莢に収めた専用弾薬と一緒に販売されていた。1862年型では、固定式弾倉に紙で包んだ鉛弾を内蔵する薬莢実包をバラで投入する給弾方式であった。その後各種の金属薬莢式弾薬が普及し始めると、これを使用するタイプが製造されるようになり、1865年型からは口径0.58インチの真鍮製薬莢の実包をバネを用いずその自重で落とし給弾する箱型弾倉式に代わり、これ以外にも必要に応じて上部から実包を次々に継ぎ足す装弾クリップ式もあり、各国へ輸出されるようになった。

前装式小銃が主流だった南北戦争当時、ガトリング砲の持つ200発/分の連射速度は驚異的であり、1866年に軍によって採用される以前から、セールスエンジニアが戦場にガトリング砲を持ち込み、実際に敵兵(南軍)を撃って見せる実戦参加デモンストレーションが行われた。

 
1876年型ガトリング砲(米国国立公園局所蔵)

初期のガトリング砲は射撃中、射手が一定速度でクランクを回さないと弾丸詰まりを起こしやすく、また回転速度を上げすぎると、過熱による部品の破損の危険があった。このため1893年には電動モーターにより一定のペースを保って射撃できるタイプが開発されたが、当時のモーターやバッテリーはまだ重量過大で信頼性が低く、さらに重量が増し、却って扱いが難しくなってしまった。後の時代に航空機用として生まれ変わったガトリング砲では、部品の精度や材質も改善され、外部動力のため不発が発生しても強制排莢して射撃が持続できるという利点があった。

しかし、南北戦争で双方が使用したエンフィールド銃に代表されるミニエー式小銃の強力な殺傷力が、戦列歩兵式の歩兵運用を廃れさせると、歩兵は密集して真っ直ぐ向かってくる存在から、散開しながら接近してくる存在へ変わってしまい、機動性と軽便さに欠けるガトリング砲は野戦では徐々に有効性を失ってしまった。また、射手はクランクを回して操作するために射撃姿勢が高く、狙撃を受けやすいという問題もあった。ガトリング砲が威力を発揮できたのは、敵兵が突撃を仕掛けてきた際の拠点防衛用や海戦においてであり、敵艦の甲板を掃射して乗組員を殺傷したり、接舷攻撃を仕掛けてきた敵を迎え撃つのには大変適しており、イギリスロシア帝国は、植民地での海賊撃退用にこれを活用した。

機動性と射手の防御の問題を解決するため、イギリスのエジプト駐留軍では、四方を鉄板で覆った装甲列車に載せて使用していた。また、「キャメルガン」の名称で駱駝の背中に載せられるほど軽量化したことをアピールしたタイプや、ドーナツ型の弾倉を使用するものや銃身を短縮させた“ブルドッグ”と呼ばれたタイプも登場した。

やがて、マキシム機関銃ブローニング重機関銃といった、単銃身で軽量な重機関銃が出現すると、大型で重いガトリング砲は一挙に旧式化した存在となった。また、燃焼カスが大量に発生し銃身あたりの連射数の限界が低い黒色火薬褐色火薬実包から、清掃無しでも連射数の比較的多い無煙火薬実包への切り替えも大きく寄与している。

これらの単銃身機関銃は、発射時の反動やガス圧といった内部動力を利用しているため、ガトリング砲よりも小型・軽量でありながら、ベルト給弾機構によって長時間の持続射撃が可能であり、特にマキシム機関銃は、水タンクで銃身を覆って冷却する構造となっており、19世紀の水準で作られたガトリング砲よりも高い工作精度で製造され、信頼性も高く、ボーア戦争日露戦争第一次大戦で高い戦果を挙げた。そして、なお重量過大であった重機関銃から、一人で携行射撃が可能な軽機関銃短機関銃が登場した。

ガトリング砲は1950年代航空機用機関砲(後述)として復活したほか、手回し式のガトリング砲はアメリカの州によっては法的に規制される自動火器には該当しないため、22LR弾を用いたミニチュアのガトリング砲が、手軽にフルオート射撃を楽しみたい人々に向けて市販されている。

日本におけるガトリング砲

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日本では戊辰戦争においての河井継之助が率いた長岡藩兵が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある[2]。河井は戊辰戦争における獨立特行を目指し、先進的な軍備の整備に努めて軍制改革を行い、スイスのファーブル・ブランド商会からガトリング砲を入手した。当時はスネル兄弟などの欧米の武器商人が欧米では旧式となった銃器を販売していたが、当時最新の兵器であったガトリング砲は日本に3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していたことになる[3][4][5][6][7][8][9]

戦場では河井自身もガトリング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使用した河井の目論見は、コストパフォーマンスの悪い結果で終わった。

幕府が米国から購入し、新政府が引き継いだ軍艦「甲鉄」に搭載されていたガトリング砲は、1868年に同艦に対し榎本軍の軍艦「回天丸」の乗員が接舷斬り込み攻撃をかけた際の反撃に用いられたとされているが、『薩藩海軍史』には甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が記載されており、実際に使われたかどうかは不明である。

1874年4月、北海道開拓使がアメリカから2挺を購入、8月にはユリシーズ・グラント大統領から明治天皇に対し1挺が贈呈されている。

その後発足した日本陸軍では、台湾出兵[10]西南戦争[11]でガトリング砲が実戦投入された事が記録されている。

西南戦争の後は記録は途絶え、台湾総督府が反乱鎮圧用に常備[12]していた事や、日清戦争日露戦争で清軍・露軍が使用していたものを日本軍が鹵獲[13]した記録などが散見される。

1920年ニコラエフスクパルチザンに占領され日本人居留民、駐留日本軍がロシア人とともに殺戮された尼港事件の際には、中国海軍から日本軍砲撃のためにパルチザンに貸与されたガトリング砲が日本領事館攻撃に利用された[14]

航空機用火器としての復活

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戦闘機の主武装は、最初期から単銃身の機関銃・機関砲が主流であった。高速で飛行する物体が同じく高速で飛行する物体を正確に射撃することは極めて困難であり、多数の弾丸をばらまくことで命中率を高めるのが必然の選択であった。戦闘機の黎明期当時は、既にガトリング砲は陳腐化した兵器であり、戦闘機への搭載など考えられもしなかった。

しかし、1930年代から全金属製の軍用機が普及すると、防弾能力の付与が行われるようになり、戦闘機搭載の機関銃砲はこれに対応することが求められた。これに対して、主に英米は小口径機関銃を多数搭載することで対処したが、搭載位置が離れた機関銃の射線を、目標物に集中させるには、その射程が限られるという問題があった。主にドイツは機関砲の大口径化で対応したが、弾丸の速度や軌道の面で、ひいては命中率で小口径銃に劣るという欠点があった。同時に軍用機の速度は高速化し、その点でも命中率の低下は問題であった。

1940年代の半ばからジェット機が実用化されると、プロペラの干渉の問題が無くなったため、戦闘機においては胴体部分に多数の機銃を集中配備するようになり、射線の問題についてある程度は解決がなされたが、まだ不十分であった。同時に軍用機の高速化と構造強化も一層進展したため、新たな対処を迫られた。

第二次世界大戦末期にドイツで開発されたリヴォルヴァーカノンは、有効な解決手段と思われた。砲身は単一であるが発射速度が従来の機関砲の数倍に向上し、小口径機関砲を多数装備するのと同等の効果を、命中率の低下なしで達成するものである。戦後、欧米諸国に広く普及した。

 
ガトリング砲の発展型であるM61 バルカン
 
A-10サンダーボルトIIに搭載されたGAU-8・30mmガトリング砲、アヴェンジャー(対地用)

この趨勢の中、アメリカ空軍は、リヴォルヴァーカノンより高い発射速度を求めて、ガトリング方式に着目し、陸軍博物館倉庫にあった骨董品のガトリング砲に電動モーターを取り付けたものを作成、実験を行い、期待以上の大きな発射速度と弾丸の集中的着弾による強力な破壊効果を確認した。有効性が認められたガトリング砲は、ゼネラル・エレクトリック社製M61/M61A1「バルカン」(製品名:米GE製品だが商標登録はスイス・エリコン社)として完成し、現在に至る。

M61/M61A1「バルカン」や同種機構の外部動力式自動火器は短時間で実包を大量消費するため、給弾機構はベルトコンベヤーのような構造をしている。 他の単銃身機関銃に採用されているリンクベルトはガトリング砲では弾薬消費のスピードが速すぎるため、張力に耐えられず使用できないことから「レール給弾」(砲と弾倉をチューブで繋ぎ、その中に弾倉内の砲弾を電動モーターで送り出す)方式が用いられる。

反面、ガトリング砲の根本的な欠陥である重量過大と構造の複雑さによる信頼性の低さ、またM61が使用する20mm弾の一発あたりの破壊力の低さ、そして「超高速のジェット機同士の空戦では、ガトリング砲が回転作動し始めてから給弾・発射されるまでのほんの一瞬の間でさえ、後れをとって勝敗を分けてしまう」欠点が指摘されている。そのため欧州の戦闘機においては、20mm台~30mm口径のリヴォルヴァーカノンが現在も採用されている。

ミサイル万能論と「バルカン」

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M61 バルカンの開発から10年ほど経過していたベトナム戦争当時には、アメリカ空軍の戦闘機にガトリング形式の自動火器が搭載された機は少なかった。また、当時製造されたF-4をはじめ一部の戦闘機は初期設計では機関砲の類が搭載されていなかった。

これは当時流行した「航空機は高速化して機銃を撃つ機会はなくなり、高精度化したミサイルによりその必要もなくなる」という戦術思想に基づくミサイル万能論の影響によるもので、航空機に積まれる機関銃機関砲は対地攻撃用兵器として捉えられるようになっていた。

だが、実戦が始まると、ミサイル万能論が楽観的であったことが以下のような事例で確認された。

ミサイルの命中率・信頼性の低さ
技術的な過大評価とベトナムの高温多湿による品質の低下。
実際に携行されるミサイルの少なさに加え、運用コストの高さ
最大8発のミサイルを搭載できる機でも、戦術上の都合と未使用ミサイルがコスト増を招くなどの理由もあって最大積載量まで満載されることはまずなく、精々4〜6発しか搭載されていなかった。戦闘で使用しなくても、出撃に用いられたミサイルは帰還後の整備を要するためである。またミサイルは重量があるため多く積載すればそれだけ航空機の運動性能が低下したほか、より多くの燃料を消費した。更に空母航空団では、航空母艦の場合狭い飛行甲板上での事故防止のため未使用のミサイルを着艦前に投棄せねばならなかった。
アメリカ軍の当初の交戦規定では「視程外攻撃」を禁止
目視前のレーダー捕捉のみによる攻撃が許されなかったため、結果、敵機による目視・回避される機会を増やした。
任務上の問題
制空戦闘・爆撃機の護衛が任務である以上、その場に留まることが要求された。北ベトナム側はミサイルを全弾発射した後、逃げ帰ることができたが、アメリカ側にはそのような作戦行動は許されなかった。
機関砲の有効性
実際には機関砲用の照準装置も飛躍的に進歩しており、高速化した戦闘機同士の戦闘でも、十分、能力を発揮できた。攻撃機が搭載する機関砲ですら、対戦闘機の自衛戦闘で予想外に大きな効果を上げたことが確認された。
戦術想定の誤り
想定と異なり実際のドッグファイト時は、超音速飛行はあまり行われず、亜音速やそれ以下の速度で行われている。

こうして高い連射性能を持つガトリング形式の自動火器は空対空兵器としての地位を取り戻した。アメリカ空軍最新鋭のF-22Aステルス戦闘機にも、砲身の延長と機関の改良が行われたM61A2が搭載されている。航空機搭載に際する携行弾数は、全力で撃てば1分も経たずに撃ち尽くす程度の弾数、約600〜700発程度(F-4F-14F-15EF-16F/A-18、F-22等)だが、ごく一部の機体は約1,000発を搭載できた(F-105、F-15C)。

ソ連でも1960年代以降はGSh-6-30 30mmガトリング式航空機関砲が用いられたが、対地ロケット弾や対地ミサイルを補う対地掃射用であり、これは現在でもある程度継続使用されているが、搭載している機種は減少している。空対空機関砲としては1970年代半ばまでは23〜37ミリの大口径ガスト式機関砲2〜3門(装弾数は各100発程度)を搭載、それ以降の機関砲は一貫して30ミリ単砲身のGSh-30-1(搭載数一門。携行弾数は100〜150発)が用いられており、MiG-31を除いては空対空用としてガトリング砲を用いることは無かった。

今日のガトリング式機関砲は、前述の空対空機関砲としての用途に加え、その速射性から、海上対空兵器としてのCIWSや、空対地兵器として攻撃機攻撃ヘリコプターなどにも搭載され、活用域は再び拡大している。

種類

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アメリカ合衆国

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GAU-8 アヴェンジャー
口径30mm - 7銃身。対戦車攻撃用に開発され、A-10攻撃機に搭載。CIWSの一種であるゴールキーパーにも使用。
GAU-12
口径25mm - 5銃身。AC-130ガンシップ等に搭載。
GAU-19
口径12.7mm - 3銃身。
 
UH-1Nに搭載されたGAU-17ミニガン
GAU-17 M134 ミニガン
口径7.62mm - 6銃身。空軍での名称はGAU-2B/A。ヘリコプターのドアガンや車載機銃として使用される。歩兵による運搬や運用を目指して、より小型のXM214「ミニミニガン」または「マイクロガン」と呼ばれる5.56mm NATO弾版ミニガンも試作されたが、銃本体だけで12.25kg、弾薬込み装備重量では30kgを超えるものであった。本来2名で運搬し銃架に据え付けられて重機関銃として運用される火器であり、また弾薬以外に駆動用の大型バッテリーが必要で、映画のように個人が手持ちで保持射撃するのは不可能である。(→XM214ないしM134の項目を参照)
GAU-22/A
口径25mm - 4銃身。F-35A等に搭載。
M61 バルカン
口径20mm - 6銃身。戦闘機用に開発され、後に海軍のCIWSであるファランクスシステムにも使用。
M197
口径20mm - 3銃身。AH-1 コブラ等に搭載。M61の系列機。

ソビエト連邦・ロシア連邦

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GSh-6-30
口径30mm - 6銃身。MiG-27に搭載。また、海軍のCIWSであるAK-630コールチク(カシュタン)に用いられているAO-18機関砲のベースにもなっている。
GSh-6-23
口径23mm - 6銃身。Su-24MiG-31に搭載。
YakB-12.7
口径12.7mm - 4銃身。Mi-24DやMi-24Vに搭載。
GShG-7.62英語版
口径7.62mm - 4銃身。ガンポッドに装備。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 陸軍省大日記 日清戦役
    明治27年9月12日至明治28年4月2日
    「第1軍 戦闘詳報」
    「分捕兵器弾薬取調明細表 名称 個数 七珊知米突克慮伯野砲 同山砲 小口径克慮伯式山砲 ガットリング@発砲 同蜂巣砲 七珊知米突野山砲榴弾 同榴発弾 同霰弾 小口径山砲榴弾 小口径山砲尖弾 火薬」
  2. ^ 『歴史を動かした兵器・武器の凄い話』149頁
  3. ^ 『河井継之助の生涯』、pp.175-176
  4. ^ 展示品紹介河井継之助記念館(2018.9.3アクセス)
  5. ^ 河井継之助福島県観光交流局観光交流課(2018.9.3アクセス)
  6. ^ 河井継之助 北越戦争で長岡城奪還 信念貫く武士道産経ニュース(2018年4月30日)-2018年9月26日閲覧
  7. ^ 『長岡歴史事典』、p.65
  8. ^ 「鈴木総之丞日記」慶応4年5朔日の條(『河井継之助伝、p.278』)
  9. ^ 『歴史への招待14』、pp.8-9、p.17、p.29
  10. ^ 単行書・処蕃始末・甲戌四月之一・第五冊
    蕃地事務局 明治7年4月7日
    「陸軍省御中 開拓使 カツトリンク砲二挺附属品トモ代価別紙ノ通リ洋銀七千七百二十五弗五十二セント外ニ右買入方ニ付御入費金十七円九十九銭洋銀十弗七十五セント相掛リ候儀ニ有之尤モ前書七千七百弗余ノ分ハ買上ケ約定致シ候マデ@テ未払出不相成候間御省ヘ御買相成候ハ丶直ニウオルスフオール商会ヘ御払下相成候様存シ候当使ヘ御差越候テモ差支無之候此段及御掛合候也 カツトリング砲二挺砲台大薬価付精算 一インチ弾丸カツトリング砲一挺并附属品 代価二千弗 四十二カリブル弾丸直径カツトリング砲一挺同断右十二函入 代価千五百弗 四十二カリブル針打銅製弾丸一万発 捨函 代価三百九十弗 〆三千八百九十弗 相場違ニ五分減 百九十四弗五十銭〜」

    単行書・処蕃始末・甲戌四月之三・第七冊
    蕃地事務局 明治7年〜明治8年
    「明治七年四月十七日横濱鈕育船ニテ結約 日本政府之名代トシテ同政府ノ為ニ極上品早合ガットリング炮実丸カリブル数十五万ガットリンク早合十万ヲ取寄ヘキ旨ヲシ、エ、ジファウルブラント商社一命シタリ早合之価ハ米國元価ニ船積料運送手数料并海上危険料ヲ加ヘ其上シエジファウルブラント商社ヘ口銭トシテ合価之五分ヲ与フヘシ 前記早合ハ非常事件アルノ外ハ約書調印之日ヨリ約ソ二ケ月之内横濱ニテ引渡スヘシ 前記早合注文スルニハ電信ヲ用フルニヨリ電信料ハ日本政府ニテ払戻スヘキ事 シエンファーウルブラント 大蔵卿大隈氏ノ命ニ因テ シダップリユリゼンドル 証人 イエムヒライ」

  11. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月4日
    砲第九十八号 カットリング弐門以下福岡エ差送ノ儀ニ付伺 南ノ関出張先福原大佐ヨリ別紙ノ通電報有之候ニ付申越ノ通可差送候哉此段相伺候也 明治十年三月四日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理陸軍少将西郷従道殿 伺ノ通 但臼砲二門榴弾百発焼弾百発木管属具共並ニカットリング砲二門弾薬六千五百発至急送達可致事 三月五日

    陸軍省大日記 「大日記 砲兵工兵方面 5月木 陸軍省第1局」
    陸軍大佐 大築尚志 明治10年5月 陸軍省
    「陸第千百七十五号 甲第七十四号 至急砲弐百六十八号 大坂支廠ヨリ電報之儀ニ付伺 別紙之通昨夕大坂支廠ヨリ電報有之候ニ付当廠在庫品取調候処一舶用ブロートヱル属品共弐門一同弾信管共四百発一ガットリング車台属品共壱門同弾弐万発クルツプ榴弾信管共弐千発右之通有之候ニ付申越之通船便次第送方取計可申哉此段相伺候也 明治十年五月廿一日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理 陸軍少将井田譲殿 追テ猶又只今別紙乙印之通ヱンヒール火門針及ヒ換壱門之儀モ申越候是又申越之通相送可申哉此段モ添テ申進候也 伺之通 五月〜」

  12. ^ 陸軍省大日記 密大日記 明治39年
    内務次官 吉原三治 明治39年3月22日
    陸軍省 内務省
    「密受第一〇四号 内務省 ガツトリシグ機関砲弾藥貸与ノ件 砲密第七五号 回答 次官ヨリ内務次官ヘ 蕃界警備用トシテ半吋ガツトリング機関砲弾藥ヲ台湾総督府ヘ貸興ノ儀ニ付台甲第三一号照会ノ趣了承右ハ来意ノ通該弾藥二萬発ヲ兵器本工廠ヨリ同総督府ヘ送達セシメラレ候条承知相成度 兵器本廠ヘ達 半吋ガツトクング機関砲弾藥 右蕃界警備用トシテ台湾総督府ヘ支給方取計フヘシ 但本費ハ軍事費兵器弾藥費ヨリ仕拂フヘシ 密発第五九号 内務省台甲第二一号ノ内 客年十月二十六日付密発第八一号ヲ以台湾総督府ヘ御貸興相成度機関砲及同弾藥ノ内ガツトリング半吋十連機関砲ハ蕃界@@上日取適@ノモノヘ@ニ有之候処尚等貸与セラレタル同弾丸ハ弾ニ五千発ニ止マリ爾来@@上該砲使用スルニ@@弾丸ニ差支〜」
  13. ^ 陸軍省大日記 明治27年「秘27、8年戦役戦況及情報」
    作成者名称 大本営 児玉少将 9月26日 陸軍省
    「九月二十六日 九月二十四日午後三時十五分平壌発野津師団長ヨリ左ノ報アリ 平壌ニテ分捕ノ大砲四六門(四〇ノ誤ナラン)内克処普野砲四、山砲二六門ガットリング砲六、外ニ敵ノ案州ニ残シ置ケル野砲四門ヲ合シ〜」

    陸軍省大日記 明治35年「参大日記 1月」
    砲兵会議議長有坂成章 明治35年1月9日
    「参第七号 砲兵会議 ガツトリング機関砲下渡ノ件 大臣 総務長官 機密課長 主務課員 庶務課長 主務課局 決裁 参事官 主務局長 主務課長 主務課員 受領 一月十四日 結了 一月十五日 提出年月 明治 年十一月 日 立案局課番号 砲三第七号 連帯局長 連帯課長 立案局課ノ校合者 御指令案 伺之通 一月十五日 兵器監部ヘ御達案 一米国製口径十一密五 ガツトリング(有被筒)機関砲 一門 但戦利兵器第一次審査報告第二@表中第六項ノモノ 右砲兵会議ヘ下渡方取計フヘシ 陸軍省送達 送乙第四九号 一月十五日 参第七号」

  14. ^ 陳抜談、陳鐸記、伊藤秀一和訳『ニコラエフスクの回想』ロシア史研究23 (1975年)収録

参考文献

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  • 国立公文書館収蔵資料
  • 外務省外交史料館収蔵資料
  • 防衛省防衛研究所収蔵資料
  • 月刊アーマーモデリング創刊号 『イラスト通信 日本最初の機関銃』(著:高荷義之)
  • 小林良夫・関野邦夫『ピストルと銃の図鑑』池田書店
  • 今泉鐸次郎『河井継之助伝』(目黒書店、1931)
  • NHK「火を噴くガトリング砲」『歴史への招待14』(1981)
  • 安藤英男『河井継之助の生涯』(新人物往来社、1987年)
  • 長岡市教育委員会、長岡市立中央図書館『長岡歴史事典』(長岡市、2004)

関連項目

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外部リンク

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