ガスパル西
ガスパル西(ガスパルにし、1556年(弘治2年) - 1609年12月10日(慶長14年11月14日))は肥前国松浦郡生月島(現在の長崎県平戸市)の戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン。同地にて殉教し、2008年にカトリック教会の福者に列せられた。トマス西は息子である。
ガスパル 西 | |
---|---|
黒瀬の辻殉教地(ガスパル様) (北緯33度22分19.09秒 東経129度25分48.32秒 / 北緯33.3719694度 東経129.4300889度)(2014年(平成26年)7月) | |
殉教者 | |
生誕 |
1556年(弘治2年) 肥前国松浦郡生月島(現:長崎県平戸市) |
死没 |
1609年12月10日 (慶長14年11月14日) 肥前国松浦郡生月島 |
崇敬する教派 | カトリック教会 |
列福日 | 2008年 |
列福決定者 | ベネディクト16世 |
主要聖地 | 生月島 |
記念日 | 7月1日 |
ガスパル 西 | |
---|---|
教会 | カトリック教会 |
洗礼名 | ガスパル |
生涯
編集1556年(弘治2年)、生月島にて誕生。2歳の時にガスパル・ヴィレラからカトリックの洗礼を受けた。未亡人であったウルスラ・トイと結婚し、その連れ子であったガスパル・トイと、ウルスラとの間に生まれた息子3人、娘1人を育てた。娘・マリアの嫁ぎ先の父でありキリシタンの取り締まりを行っていた近藤喜三が松浦鎮信に訴えたことにより捕らえられ、1609年(慶長14年)に死罪となった。その際にイエス・キリストと同じ磔刑を望んだが認められず、生月島の黒瀬の辻[注釈 1]で斬首に処せられた。望んだ地での処刑であった。また、妻ウルスラ、長男ジョアン(ヨハネ)又一も同じように斬首された[1]。
なお、次男・トマス六左衛門(トマス西)は、マニラでドミニコ会の司祭となり、帰国後は長崎に潜伏しながら布教活動を行っていたところを捕らえられ処刑された。三男・ミカエル加左右衛門は、広島の教会で奉仕を行っていたが、兄であるトマス西をかくまったことを理由に、妻や子供と共に死罪となった。
ガスパル西とともに、妻ウルスラ、長男ジョアン又一は2008年(平成20年)11月24日に日本で初めて長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた[2]。また、次男トマスは1987年(昭和62年)に「聖トマス西と15殉教者」として聖人に列せられている[3]。
脚注
編集注釈
編集- ^ キリシタンへの迫害が厳しくなるまで、コスメ・デ・トーレス神父が建てたといわれる十字架があった場所。その後「ガスパル様」と呼ばれ、いまも隠れキリシタンとカトリックの信仰の地となっている。
出典
編集- ^ “生月の殉教者 ガスパル西玄可とその家族”. カトリック中央協議会. 2022年11月15日閲覧。
- ^ “生月学講座 No.076「ガスパル西玄可の殉教」”. 島の館 (2019年12月18日). 2022年11月15日閲覧。
- ^ “聖トマス西と15殉教者”. カトリック中央協議会 (1988年8月30日). 2022年11月15日閲覧。