カール・ムント
カール・アール・ムント(英語:Karl Earl Mundt, 1900年6月3日 - 1974年8月16日)は、アメリカ合衆国の政治家。所属政党は共和党。連邦下院議員、連邦上院議員を務めた。
カール・ムント Karl Mundt | |
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生年月日 | 1900年6月3日 |
出生地 |
アメリカ合衆国 サウスダコタ州、ミネハハ郡、フンボルト |
没年月日 | 1974年8月16日(74歳没) |
死没地 |
アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
出身校 |
カールトン大学(B.S.) コロンビア大学(M.S.) |
所属政党 | 共和党 |
配偶者 | メアリー・モーゼス |
選挙区 | サウスダコタ州第2部 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1948年12月31日 - 1973年1月3日 |
選挙区 | サウスダコタ州第1選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1939年1月3日 - 1948年12月30日 |
経歴
編集ムントは1900年6月3日にサウスダコタ州ミネハハ郡フンボルトで生まれた。アメリカ合衆国下院議員(SD-1)を5期務めた後、ヴェラ・ブッシュフィールド上院議員の死去に伴ってアメリカ合衆国上院議員に就任し、以後4選を果たした。
政府の発する情報は海外向けと国民向けとで厳格に区別されなければならないとする、1948年のスミス・ムント法(連邦情報・教育交換法、en:Smith–Mundt Act)[1]成立に尽力した。
ヴィジョン・オヴ・アメリカ
編集1950年7月1日付連合国軍最高司令官総司令部ダグラス・マッカーサーあての書簡で、海外向け国営テレビ「ヴィジョン・オヴ・アメリカ」[2]のための放送システムを日本に作るよう提案し、退けられた[3]が、正力松太郎や柴田秀利を通して、日本国内で最初の民放テレビ・日本テレビ発足を支援した。
→「正力マイクロ波事件」も参照
関連項目
編集脚注
編集- ^ 金子将史「パブリックディプロマシー~その歴史と役割」2000年8月
- ^ ムントに「ヴィジョン・オヴ・アメリカ」構想を吹き込んだのは、ジャパン・ロビーが席巻していたアメリカ合衆国国務省のVOA担当ウィリアム・ベントンであった。 有馬哲夫 『日本テレビとCIA-発掘された「正力ファイル」』 新潮社 2006年10月 pp.41-43.
- 沖縄返還にあたり、架空の核撤去費が当初の5000万ドルから7000万ドルへ引き上げられたが、差額の2000万ドルは密約であり、VOA中継局移転費の日本側による肩代わり分だという。 田島康彦・清水勉 『秘密保全法批判-脅かされる知る権利』 日本評論社 2013年3月 pp.162-163.
- ^ 有馬哲夫 「冷戦のメディア、日本テレビ放送網―正力マイクロウェーブ網をめぐる米国反共産主義外交・情報政策」
外部リンク
編集- United States Congress. "カール・ムント (id: M001078)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Karl E. Mundt Archives
アメリカ合衆国上院 | ||
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先代 ヴェラ・ブッシュフィールド |
サウスダコタ州第2部 選出議員 第8代: 1948年12月31日 - 1973年1月3日 同職:ジョン・ガーニー フランシス・ケース ジョセフ・ボットム |
次代 ジェームズ・アブレズク |
アメリカ合衆国下院 | ||
先代 フレッド・ヒルデブラント |
サウスダコタ州第1選挙区 選出議員 第4代: 1939年1月3日 - 1948年12月30日 |
次代 ハロルド・ロブレ |