オースチン・ヒーレー100
オースチン・ヒーレー100は、1953年から1956年の間に、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)により製造されたスポーツカーである
「100」(ハンドレッド)は後に「ビッグ・ヒーレー」と呼ばれることとなる[1]3タイプ中の最初のモデルにあたる。後継の「100-6」(ハンドレッド・シックス)は、寸法、外観、メカニズムの点で「100」よりも最終型の「3000」と多くの共通点を持った別モデルである。
この車は、ドナルド・ヒーリーにより、ウォリックにあった彼の小さな会社において、オースチンA90アトランティック(Austin Atlantic 英語版)のメカニズムを元にして開発された。ヒーリーは1952年のロンドンモーターショー[2]に向け1台のヒーレー100を製作。そのデザインはオースチンの社長であったレナード・ロードに大きな感銘を与え、オースチンのロングブリッジ工場で量産される契約がヒーリーとの間に結ばれ、その車は「オースチン・ヒーレー100」と改名された。
「100」という名は、ドナルド・ヒーリーが名付けたものだが、これはこの時代にはほとんど存在しなかった、100 mph(時速100マイル) を達成できる車両であることに由来する。それに対し、後継である「オースチン・ヒーレー3000」の名は、搭載していた直列6気筒の 3,000 cc エンジンに由来している。
100(BN1、BN2)
編集100 BN1/BN2 | |
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1956 オースチン・ヒーレー 100 ロードスター | |
概要 | |
製造国 | イギリス |
販売期間 | 1953年-1956年 |
ボディ | |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | 2.66L 直列4気筒 |
変速機 | 3MT(BN1) / 4MT(BN2) |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,286mm |
全長 | 3,835mm |
全幅 | 1,524mm |
全高 | 1,251mm |
その他 | |
生産台数 | 14,634台 |
系譜 | |
後継 | オースチン・ヒーレー 100-6、BN4 |
オースチン・ヒーレー100の生産は、オースチンのロングブリッジ工場においてA90のラインの隣で行われ、ベースとなったA90のシャーシに、ウェスト・ブロムウィッチにあったジェンセンにて製作、塗装がされたボディを載せて仕上げられた。以前この両社は、オースチンA40スポーツの開発計画を共同で進めていた。
最初の100(シリーズBN1)は、A90と同じ90 hp(67 kW)のエンジンとマニュアルトランスミッションを装備していたが、トランスミッションは3速ユニットに、2速と3速にオーバードライブを持つようモディファイされている。2,660 cc の水冷直列4気筒エンジンは、当時の4気筒としては大排気量のスペック、アンダースクエアとなる87.3 mm のボアと111.1 mm のストロークが特徴である。オースチンは商用車分野で競合するゼネラルモーターズ(GM)傘下のボクスホール製ベドフォードトラックにパワーで対抗するため、1930年代後期にGM製シボレー直列6気筒OHVを参考にした大型6気筒エンジンを開発したが、A90・ヒーレー100に積まれた4気筒はその派生型であった。
足回りは、ガーリング11インチ(279.4 mm)ドラムブレーキが4輪に装着され、フロントサスペンションはコイルスプリングを使った独立懸架、リアは半楕円リーフスプリングのリジッドアクスルを採用。ステアリングはカム・レバー式である。
生産は1953年10月に始まり、1955年半ばにBN2モデルへ変わった。BN1とBN2との違いは、僅かに大きなフロントホイールアーチ、リアアクスル、BN1にはオプションで2トーン塗装があったことである。100で選べた色には、リノレッド、スプルースグリーン、ヒーレーブルー、フロリダグリーン、オールドイングリッシュホワイト、プリムローズイエロー、黒、そして限定のガンメタルグレーがあった。
1953年、ドナルド・ヒーリー モーターカンパニーはワークス体制で2台の100をル・マン24時間レースに出場させ、総合12位、14位を獲得した。それに合わせて110 hp(82 kW)を発揮する高性能モデルの100Mが開発され、640台限定で作られた。「M」はル・マン(Le Mans)意味する。100Mはフロントサスペンションが強化され、ボンネットには革製のボンネットベルトと共に排熱用のルーバーが加えられた。エンジンは、キャブレターへのエアフローを増やすためのコールドエアボックスが、より口径の大きな1-3/4SUキャブと共に装着されている。
もう一つの限定車として、50台が市販されたアルミボディと132 hp(98 kW)エンジンを持つ100Sがある。鋳鉄シリンダーヘッドはアルミヘッドに換装され、オーバードライブユニットが外されていた。そしてダンロップ製のディスクブレーキを前後に装着している。車重を最低限にするため、バンパーあるいはフード(コンバーチブルトップ)がなく、フロントグリルは小さな物を使い、ウインドシールドスクリーンはプラスチック製の物に改められた。この100Sは、前後にスポーツディスクブレーキを備えた、世界初の市販車でもあった。軽量化の結果、重量は標準車より91 kg 軽くなっている。大多数の100Sは白に青のサイドを持つ2トーンカラーだった。しかし、少量がスプルースグリーン、リノレッドでオーダーされ、また1台のみ全て黒の100Sがある。
この他にドナルド・ヒーリー・モーターカンパニーでハンドメイドによるワークスカーが5台製作された。
これらの直列4気筒モデルは全てホイールベース90インチの2シーターである。
The Motor 誌(英語版)が1953年に行ったテストで、BN1は106 mph(171 km/h )の最高速と、0-60 mph(97 km/h)加速で11.2秒を記録。燃料消費は1英ガロンあたり22.5マイル(12.6 L / 100 km、18.7 mpg(アメリカガロン))。テスト車は税込み1063ポンドであった。
100-6(BN4、BN6)
編集100-6 BN4 | |
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1958 オースチン・ヒーレー 100-6 スポーツ | |
概要 | |
製造国 | イギリス |
販売期間 | 1956年-1959年 |
ボディ | |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | BMC Cシリーズ 2.639L 直列6気筒 |
変速機 | 3MT(BN1) / 4MT(BN2) |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,337mm |
全長 | 4,000mm |
全幅 | 1,524mm |
全高 | 1,270mm |
その他 | |
生産台数 | 14,436台 |
系譜 | |
後継 | オースチン・ヒーレー 3000 |
100-6は100の名が冠された最後のモデルで、1956年のBN4(2+2)と1958年のBN6(2シーター)からなる。後席のスペース確保のため、ホイールベースは2インチ(50.8mm)拡大された。ボンネットにはビルドインエアスクープが設けられ、ウインドシールドスクリーンはそれまで可倒(後傾)式だったものが固定式となった。かつてオースチン・ウエストミンスターに搭載されていたBMC・Cシリーズエンジン(英語版)をチューニングして搭載し、当初は102bhp(76kW)を発揮した。1957年にマニホールドとシリンダーヘッドに改良が加えられて117bhp(87kW)へと最高出力が引き上げられた。オーバードライブユニットは標準装備からオプション装備となった。1957年後半に生産工場がロングブリッジからアビンドンにあるMGの工場へと移されている。
117bhp仕様のBN6が The Motor 誌により1959年にテストされ、最高速度103.9mph(167.2km/h)、0-60mph(97km/h)加速10.7秒を記録。燃料消費は1英ガロンあたり20.8マイル(13.6L/100km、17.3mpg(アメリカガロン))を計測した。テスト車の価格は税436ポンドを含む1307ポンドであった。
脚注
編集- ^ 「カニ目」ことオースチン・ヒーレー・スプライトの誕生で区別が必要となった。
- ^ 2006年からロンドンで開催されている英国国際モーターショーとは異なる。
外部リンク
編集- Austin Memories—History of Austin and Longbridge
- Volunteer register with records and photos of the 100