エンソ・フランチェスコリ

ウルグアイのサッカー選手

エンソ・フランチェスコリ・ウリアルテ(Enzo Francescoli Uriarte, 1961年11月12日 - )は、ウルグアイモンテビデオ出身の元サッカー選手、実業家。ウルグアイ代表である。ポジションはフォワードミッドフィールダー

エンソ・フランチェスコリ
2007年のフランチェスコリ
名前
本名 エンソ・フランチェスコリ・ウリアルテ
Enzo Francescoli Uriarte
愛称 西:El Príncipe
:Le Prince (王子様)
ラテン文字 Enzo Francescoli
基本情報
国籍 ウルグアイの旗 ウルグアイ
生年月日 (1961-11-12) 1961年11月12日(62歳)
出身地 モンテビデオ
身長 180cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1982 ウルグアイの旗 モンテビデオ・ワンダラーズ 74 (20)
1983-1986 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 113 (68)
1986-1989 フランスの旗 RCパリ 89 (32)
1989-1990 フランスの旗 オリンピック・マルセイユ 28 (11)
1990-1993 イタリアの旗 カリアリ 98 (17)
1993-1994 イタリアの旗 トリノ 24 (3)
1994-1997 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 84 (47)
代表歴
1982-1997 ウルグアイの旗 ウルグアイ 73 (15)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ニックネームはEl príncipe(エル・プリーンシペ=スペイン語)やLe prince(ル・プランス=フランス語)、どちらもプリンス(王子)という意味であり[1]、前者は当時流行っていた曲名から付けられた[2]

概要

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1979年にモンテビデオ・ワンダラーズFCからプロデビューし、1983年に移籍したアルゼンチンのCAリーベル・プレートではリーグ得点王、リーグ最優秀選手賞、南米最優秀選手賞など数々のタイトルを獲得した。1986年から8年間はフランスとイタリアのクラブに在籍し、オリンピック・マルセイユではリーグ優勝を果たした。1994年にリーベル・プレートに復帰し、4度のリーグ優勝、2度のリーグ得点王、2度目の南米最優秀選手賞受賞など全盛期といえる活躍を見せた。

ウルグアイ代表としてFIFAワールドカップに2度(1986 FIFAワールドカップ1990 FIFAワールドカップ)出場し、いずれもベスト16の成績を収めた。コパ・アメリカでは3度(コパ・アメリカ1983コパ・アメリカ1987コパ・アメリカ1995)優勝し、その中でも母国開催の1995年大会では主将として優勝に貢献した。

クラブ経歴

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1961年にモンテビデオのカプーロ地区に、イタリア移民の子供として生まれた[3]。家族は中流階級で、CAペニャロールのファンであった[3]。6歳から14歳までは地元のカディス・ジュニアーズでプレーした[4]。ぺニャロールやCAリーベル・プレートのトライアルを受けたこともあったが、痩せすぎているという理由で不合格であった[5]。14歳の時にモンテビデオ・ワンダラーズFCの下部組織に入団し、19歳でトップチームデビューすると、在籍期間中に74試合に出場して20得点した[6]

前期リーベル時代

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1983年に移籍金36万ドルでアルゼンチンのCAリーベル・プレートに移籍し、4月24日のフェロ・カリル・オエステ戦で初得点を決めた[6]。移籍初年度は多大なプレッシャーや怪我などで調子が上がらず[7]、リーグ戦では19チーム中18位と散々な成績だったが、1984年にはリーグ戦で準優勝し、リーグ得点王とリーグ最優秀選手のタイトルを獲得した[6]。さらに、ウルグアイ人として初めて南米年間最優秀選手賞を受賞した。1985-86シーズンには再び得点王に輝き、リーグ制覇を果たした。リーベルでは113試合に出場して68得点を決めた[8]。また1986年には、コパ・リベルタドーレスの優勝に貢献、優勝を置き土産にチームを去る。

フランス時代

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1986年、フランス・ディヴィジョン・アン(1部)のラシン・パリに移籍した[8]。3シーズンで89試合に出場して36得点を決めた。この間、ASローマインテルなどが獲得に動き、特にユベントスミシェル・プラティニの後釜に据えるべく[3]、熱心に獲得に動いていたが、チームは彼を手放そうとはしなかった[3]。クラブのディヴィジョン・ドゥ(2部)降格とともにオリンピック・マルセイユに移籍した[8]。当時のマルセイユにはFWジャン=ピエール・パパン、FWアベディ・ペレ、MFクリス・ワドルなど中盤から前線にかけて名選手がひしめき合っていたが[9]、1989-90シーズンのリーグ戦では28試合で11得点を挙げ[3]、リーグ優勝を飾るとともに、ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手賞を受賞した[10]UEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出したが、ベンフィカ戦ではミスを連発して戦犯のひとりにされた[11]

イタリア時代

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わずか1シーズンでマルセイユを離れる決断をし、セリエAに昇格したばかりのカリアリ・カルチョに移籍した[12]。この移籍に際して、地元ファンから熱狂的に歓迎された[3]。またお披露目を兼ねて、前所属のマルセイユとの親善試合が行われ、最多観客動員数を記録した[3]コッパ・イタリアUSレッチェ戦で公式戦デビューし、インテル戦でリーグ戦デビュー[3]。第3節のアタランタ戦で直接FKから移籍後初ゴールを決めた[3][13] 。このシーズン、怪我を抱えていたことから、期待された程のインパクトは残せなかった[3]。1991-92シーズン、クラウディオ・ラニエリ新監督からは、プレイーメーカーやセカンドストライカーとして起用された[3]。怪我が癒えると真価を発輝し、ファンたちからの人気を獲得した[3]。1992-93シーズン、31節のトリノ戦ではフランチェスコリの2得点まあって5-0で勝利、32節のACミラン戦でも得点を決めるなどの活躍で、チームは6位に入り、来期のUEFAカップ出場権を獲得した[3]。終了後の6月にはJリーグ横浜マリノスに合流することが確実とまで報じられていたが[14]、移籍は実現しなかった。ここでの3シーズンで、104試合で17ゴールを記録[3]。カリアリ史上最高のベスト11の一人に選ばれた[15]

1993-94シーズン、同胞のアギレラからの誘いで[3]トリノFCでプレー、コッパ・イタリアでは準決勝に進んだが、セリエBのアンコーナに敗れ決勝進出はならなかった。怪我を抱えベストパフォーマンスを披露する事が出来ず[3]、リーグ戦では24試合で3ゴールに終わる[3]

後期リーベル時代

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1994年に古巣CAリーベル・プレートに復帰。リーベル・プレートで過ごした3年半でアペルトゥーラ・クラウスーラ合わせて4度リーグ優勝し、2度目の得点王に輝いた。1995年には再び南米年間最優秀選手賞に選ばれ、1996年のコパ・リベルタドーレスでは準決勝のウニベルシダ・デ・チレ戦ではアウェーゴールを決めて[13]、決勝進出に貢献するなど、同大会優勝に大きく貢献。トヨタカップではユヴェントス(イタリア)と対戦したが、0-1で敗戦した[3]。1997年にはサンパウロを決勝で破り南米スーパーカップ優勝に貢献した。1997年のリーグ優勝を置き土産に引退。

1999年8月1日には幼少期からの憧れのクラブであったペニャロールとの引退試合が行われ、8万人の観客に加えてウルグアイのフリオ・マリア・サンギネッティ大統領やアルゼンチンのカルロス・メネム大統領も駆け付けた[16]

代表経歴

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1981年には南米ユース選手権を勝ち取った[10]。1983年10月13日のコパ・アメリカ準決勝・ペルー戦でウルグアイA代表デビューした。決勝のブラジル戦1stレグで代表初ゴールとなる先制点を決めて[17]優勝の立役者となり、大会最優秀選手賞を受賞した。

1986 FIFAワールドカップ1次リーグを辛くも突破したが、決勝トーナメント1回戦でディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンと対戦し、0-1で敗れてベスト16に終わった。グループリーグのデンマーク戦では1ゴールを挙げた[17]コパ・アメリカ1987準決勝では開催国のアルゼンチンと対戦し、アントニオ・アルサメンディの決勝ゴールをアシストして勝利し、前年のFIFAワールドカップで敗れた雪辱を果たした。しかし決勝のチリ戦では前半26分に退場処分を受け、優勝の瞬間はピッチの外にいた。1990年5月に行われたイングランドとの親善試合ではイングランドのファンをも魅了するプレーを見せ、イングランドの代表戦無敗記録を17戦で途切れさせた[18]

1990 FIFAワールドカップには主将として臨んだが、本来の力を発揮しきれず、4年前と同じベスト16に終わった。地元ウルグアイで開催されたコパ・アメリカ1995では、2得点を挙げるなど[17]主将として大車輪の活躍でチームを牽引し、優勝で国民の期待に応え、大会最優秀選手にも選ばれた。

その後、一旦はウルグアイ代表を引退したものの、1996年に1998 FIFAワールドカップ南米予選でチームが苦戦を強いられていたことから、復帰、2試合に出場したが[17]、予選敗退したため、1997年に再び引退を表明した。2010年11月現在、ウルグアイ代表のフィールドプレーヤー中最多出場記録を保持している[19]

引退後

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2002年には妻子とともにアメリカのマイアミに移り住み[2]、2003年にはネルソン・グティエレスらとともに英語のサッカーチャンネルであるGOL TV社を設立した[20]。現在は同社とテンフィールド社の副社長を務めている[21]。GOL TVの仕事が軌道に乗ったため、家族とともにブエノスアイレスに戻り、週に1度マイアミを訪れる生活をしていた[2]。FIFA.comのインタビューでは「監督業には魅力を感じていない」と答えている[2]。1999年にはラ・ボンボネーラで開催されたものであったが、ディエゴ・マラドーナの引退試合に出場、2004年2月に行われたカルロス・バルデラマの引退試合にはイバン・サモラーノホセ・ルイス・チラベルトらとともに参加した[22]。2004年3月、ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選ばれた[23]。2010年3月、ワールドサッカー誌が選ぶ歴代優秀攻撃的ミッドフィールダー50人に選ばれた[24]2010 FIFAワールドカップ時にはアルゼンチンのテレビ局で解説者を務めた[25]

人物

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プレースタイル

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すらりとした体形であり、華麗なテクニックと[26]、上品で優雅な[20]、流れるようなボール捌きが特徴であり[21]、攻撃の中心となるカリスマ的存在であった[26]。このようなプレースタイルから「エル・プリンチペ(王子)」の異名をとった[27]。彼のプレーはジネディーヌ・ジダンほか多数の選手に影響を与えている[21]。そのなかでもジダンは敬愛する選手にフランチェスコリの名前を挙げ、自分の息子に「エンツォ」という名前を授けている[19]。1996年のトヨタカップ試合後にはジダンとユニフォーム交換し[2]、感激したジダンは以下のように述べた。

"子どもの頃の夢はフランチェスコリのユニフォームを手に入れることだった" —  ジネディーヌ・ジダン (1996)

影響

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ウルグアイ人であるが、CAリーベル・プレートでの活躍からアルゼンチンのサッカーファンに愛されている[28]。そのため母国のウルグアイのみならずアルゼンチンにも愛着を持っており、2010 FIFAワールドカップは両国ともに応援した[19]

容姿が整っていたり、テクニックにとりわけ秀でている南米出身選手は「フランチェスコリの再来」と言われることがある。

ディエゴ・ミリート:フランチェスコリと顔立ちが似ている。ミリートの少年時代からのアイドルはフランチェスコリである[29]

個人成績

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国内大会の成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ウルグアイ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1980 ワンダラーズ プリメーラ
1981 ワンダラーズ プリメーラ
1982 ワンダラーズ プリメーラ
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯 期間通算
1983 CAリーベル・プレート プリメーラ 27 11
1984 リーベル・プレート プリメーラ 49 29
1985-86 リーベル・プレート プリメーラ 37 28
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1986-87 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 35 14
1987-88 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 28 8
1988-89 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 26 10
1989-90 マルセイユ ディヴィジョン・アン 28 11
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1990-91 カリアリ セリエA 33 4
1991-92 カリアリ セリエA 33 6
1992-93 カリアリ セリエA 32 7
1993-94 トリノ セリエA 24 3
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯 期間通算
1994-95 リーベル・プレート プリメーラ 16 12
1995-96 リーベル・プレート プリメーラ 20 7
1996-97 リーベル・プレート プリメーラ 26 15
1997-98 リーベル・プレート プリメーラ 22 13
通算 ウルグアイ プリメーラ 74 20 74 20
アルゼンチン プリメーラ 197 115 242 137
フランス ディヴィジョン・アン 117 43 117 43
イタリア セリエA 122 20 122 20
総通算 510 198 17 7 572 227

[注 1]

代表での得点

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# 日時 場所 相手 スコア 結果 大会
1. 1983年10月27日   モンテビデオ   ブラジル 1 – 0 2 – 0 コパ・アメリカ1983
2. 1985年1月29日   モンテビデオ   東ドイツ ? – 0 3 – 0 親善試合
3. 1985年2月3日   モンテビデオ   パラグアイ 1 – 0 1 – 0
4. 1985年2月6日   コチャバンバ   ボリビア 1 – 0 1 – 0 親善試合
5. 1985年2月24日   モンテビデオ   コロンビア ? – 0 3 – 0 親善試合
6. 1985年3月31日   キト   エクアドル 2 – 0 2 – 0 1986 FIFAワールドカップ南米予選
7. 1986年6月8日   ネサワルコヨトル   デンマーク 1 – 2 1 – 6 1986 FIFAワールドカップ
8. 1989年7月6日   ゴイアニア   チリ 3 – 0 3 – 0 コパ・アメリカ1989
9. 1989年7月12日   リオデジャネイロ   パラグアイ 1 – 0 3 – 0 コパ・アメリカ1989
10. 1989年9月17日   モンテビデオ   ボリビア 2 – 0 2 – 0 1990 FIFAワールドカップ南米予選
11. 1993年8月8日   ラパス   ボリビア 1 – 3 1 – 3 1994 FIFAワールドカップ南米予選
12. 1993年9月12日   モンテビデオ   ボリビア 1 – 0 2 – 1 1994 FIFAワールドカップ南米予選
13. 1995年6月28日   リベラ   ニュージーランド ? – ? 2 – 2 親善試合
14. 1995年7月5日   モンテビデオ   ベネズエラ 3 – 1 4 – 1 コパ・アメリカ1995
15. 1995年7月9日   モンテビデオ   パラグアイ 1 – 0 1 – 0 コパ・アメリカ1995

代表歴

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タイトル

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代表

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ウルグアイ代表

クラブ

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CAリーベル・プレート
オリンピック・マルセイユ

個人

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脚注

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注釈

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  1. ^ リーグ戦以外の試合出場のほとんどは南米カップ戦出場によるものである。

出典

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  1. ^ ウィリアムズ 2007、173頁
  2. ^ a b c d e Francescoli, the Uruguayan prince”. FIFA.com. 2010年11月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Enzo Francescoli, 'Il Principe' di Montevideo idolo di Zidane”. www,goal.com. 1 August2020閲覧。
  4. ^ リベイロ、レモス 2008、113頁
  5. ^ リベイロ、レモス 2008、114頁
  6. ^ a b c ウィリアムズ 2007、188頁
  7. ^ リベイロ、レモス 2008、115頁
  8. ^ a b c ウィリアムズ 2007、189頁
  9. ^ ウィリアムズ 2007、190頁
  10. ^ a b Enzo Francescoli Biography”. Football Team Players.com. 2010年11月2日閲覧。
  11. ^ ウィリアムズ 2007、191頁
  12. ^ ウィリアムズ 2007、192頁
  13. ^ a b Enzo Francescoli all goals”. www,transfermarket.com. 1 August2020閲覧。
  14. ^ 週刊サッカーマガジン』 1993年4月4日、ベースボール・マガジン社、52-53頁。 
  15. ^ Speciale: Top 11 - Cagliari” (Italian). Cagliari Calcio.com. 8 January 2016閲覧。
  16. ^ ウィリアムズ 2007、195頁
  17. ^ a b c d Enzo Francescoli National team”. www,transfermarket.com. 1 August2020閲覧。
  18. ^ ウィリアムズ 2007、193頁
  19. ^ a b c Enzo Francescoli Talks On Uruguay, Argentina And River Plate”. Goal.com (2010年3月11日). 2010年11月2日閲覧。
  20. ^ a b Interview with Uruguayan Legend Enzo Francescoli, CEO and Founder of GolTV”. Soccerlens.com (2008年4月19日). 2010年11月2日閲覧。
  21. ^ a b c Enzo Francescoli”. 123football. 2010年11月2日閲覧。
  22. ^ 元コロンビア代表バルデラマの引退試合に56000人”. FC JAPAN. 2010年11月2日閲覧。
  23. ^ Pele's list of the greatest”. BBC Sport (2004年3月4日). 2010年11月2日閲覧。
  24. ^ The Greatest Attacking Midfielders of All-Time”. World Soccer (2010年3月5日). 2010年11月2日閲覧。
  25. ^ 『週刊サッカーマガジン増刊 南アフリカワールドカップ決算号』ベースボール・マガジン社、2010年7月、48頁。 
  26. ^ a b 『トヨタカップ大会パンフレット1996』P.27
  27. ^ ワールドカップ伝説 vol.1、46頁
  28. ^ Enzo Francescoli ( football player)”. persona.rin. 2010年11月2日閲覧。
  29. ^ ディエゴ・ミリート”. livedoorスポーツ. 2010年11月2日閲覧。

外部リンク

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参考文献

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  • アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス著、市之瀬敦訳『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』白水社、2008年。ISBN 4560026408 
  • リチャード・ウィリアムズ著、町田敦夫訳『背番号10のファンタジスタ』ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 4583100108 
  • 『ワールドカップ伝説 vol.1(’80年代編)―永久保存版 マラドーナの時代』ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 653 スポーツシリーズ NO. 525〉、2010年。ISBN 4583616457 

外部リンク

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