エド・カーペンター
エヴェレット・エドワード・カーペンター・ジュニア(Everette Edward Carpenter, Jr., 1981年3月3日 - )は、アメリカ合衆国のレーシングドライバー。カーペンターはインディ・レーシング・リーグの創設者トニー・ジョージの継子であり、現在はIZODインディカー・シリーズにエド・カーペンター・レーシングから参戦している。
エド・カーペンター Ed Carpenter | |
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2022年 | |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1981年3月3日(43歳) |
出身地 | インディアナ州インディアナポリス |
インディカー・シリーズでの経歴 | |
デビュー | 2003 |
所属 | エド・カーペンター・レーシング |
車番 | 20 |
過去所属 |
サラ・フィッシャー・レーシング ヴィジョン・レーシング PDMレーシング チーバー・レーシング |
出走回数 | 205 |
優勝回数 | 3 |
ポールポジション | 4 |
シリーズ最高順位 | 12位 (2009) |
過去参加シリーズ | |
2002-2003 | インディ・プロ・シリーズ |
経歴
編集初期
編集ミジェットカーで輝かしい経歴を積み重ね、2002年にインフィニティ・プロ・シリーズに参戦する。シンデン・レーシングに加わり、シリーズランキングは3位、レースでの最高位は2位であった。翌年はA.J.フォイト・エンタープライゼスに移籍、シリーズで最も伝統のあるファイアストン・フリーダム100で優勝する。同年後半にはPDMレーシングからインディ・レーシング・リーグへのデビューを果たした。
インディカー・シリーズ
編集2004年、チーバー・レーシングからインディカーにフル参戦する。チームメイトは経験豊富なアレックス・バロンで、そのペースに合わせるために苦戦し同シーズンの最高位は8位であった。2005年、継父のトニー・ジョージがヴィジョン・レーシングを創設し、そのチームと契約する。しかしながら、同年の成績は10位が最高で、ランキングは18位であった。
2006年3月26日、トヨタ・インディ300のウォームアップでポール・ダナとの大クラッシュに巻き込まれた。ダナは負傷のため間もなく死亡した。肺挫傷を負ったものの、翌日には退院した。4月22日、ツインリンクもてぎ戦でシリーズに復帰した。第5戦のワトキンス・グレンは雨のレースとなり、他のドライバーがスリックタイヤでいた中彼はレインタイヤに換装、自身最高位の6位でフィニッシュした。
2007年、ヴィジョン・レーシングは3台目のマシンを投入したが、前年同様の成績であった。17戦中5戦でクラッシュし、ランキング15位とヴィジョン・レーシングの中で最下位であった。2008年になるとベテランのトーマス・シェクターがチームと契約できなかったため、チームメイトはA.J.フォイト4世のみであった。シーズン序盤は勝利を望める位置で走行することがしばしばあったが、結果はなかなか残せず、彼のシーズンはシカゴランド・スピードウェイでの炎上クラッシュで終わりを告げた。
2009年シーズンはゆっくりと始動し、序盤の2戦は市街地コースで行われたが、共に下位に沈んだ。オーバルコースとなったカンザスおよびインディ500ではトップ10入りしたが、当時妻のヘザーは第2子を妊娠中であった。ミルウォーキー戦の後に子どもを出産。同年のハイライトはケンタッキー・スピードウェイでの2位表彰台であった。レースではトップを5回、34周にわたって走行し、ペンスキー・レーシングのライアン・ブリスコーとサイド・バイ・サイドのバトルを繰り広げたが、.0162秒差で後塵を拝する形となった。
2011年はサラ・フィッシャー・レーシングと契約、セントピーターズバーグを始めとする9戦に参加した[1]。彼は同年のケンタッキー・インディ300で初優勝を果たした。レースはダリオ・フランキッティに0.0098秒差という僅差での優勝であった。
2012年、エド・カーペンター・レーシングを立ち上げチームオーナー兼ドライバーとしてインディカー・シリーズに参戦。同年の最終戦フォンタナではチームとしての初優勝を挙げ、翌2013年のインディ500ではポールポジションを獲得した。
記録
編集アメリカン・オープンホイール
編集インディ・ライツ
編集年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
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2002年 | シンデン・レーシング | KAN 5 |
NSH 5 |
MIS 3 |
KTY 2 |
STL 3 |
CHI 7 |
TXS 5 |
3位 | 226 | |||||||
2003年 | A.J.フォイト・エンタープライゼス | HMS 15 |
PHX 13 |
INDY 1 |
PPIR 4 |
KAN 2 |
NSH 13 |
MIS 7 |
STL 4 |
KTY 5 |
CHI 2 |
FON 2 |
TXS 4 |
3位 | 377 | ||
2005年 | ヴィジョン・レーシング | HMS | PHX | STP | INDY | TXS | IMS 11 |
NSH | MIL | KTY | PPIR | SNM | CHI | WGL | FON | 26位 | 19 |
インディカー・シリーズ
編集- 1 同日に開催された
- 2 ノンタイトル戦
- 3 ラスベガス・インディ300はダン・ウェルドンが死亡することになった11ラップ目の15台を巻き込むクラッシュの後、中止された。
年 | チーム | 出走数 | ポールポジション | 勝利数 | 表彰台 (勝利以外)** |
トップ10 (表彰台以外)*** |
インディ500勝利数 | チャンピオン獲得数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
14 | 7 | 162 | 4 | 3 | 13 | 43 | 0 | 0 |
インディ500
編集年 | シャシー | エンジン | スタート | フィニッシュ | チーム |
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2004年 | ダラーラ | シボレー | 16 | 31 | チーム・チーバー |
2005年 | ダラーラ | トヨタ | 26 | 11 | ヴィジョン・レーシング |
2006年 | ダラーラ | ホンダ | 12 | 11 | ヴィジョン・レーシング |
2007年 | ダラーラ | ホンダ | 14 | 17 | ヴィジョン・レーシング |
2008年 | ダラーラ | ホンダ | 10 | 5 | ヴィジョン・レーシング |
2009年 | ダラーラ | ホンダ | 17 | 8 | ヴィジョン・レーシング |
2010年 | ダラーラ | ホンダ | 8 | 17 | パンサー・レーシング |
2011年 | ダラーラ | ホンダ | 8 | 11 | サラ・フィッシャー・レーシング |
2012年 | ダラーラ | シボレー | 28 | 21 | エド・カーペンター・レーシング |
2013年 | ダラーラ | シボレー | 1 | 10 | エド・カーペンター・レーシング |
2014年 | ダラーラ | シボレー | 1 | 27 | エド・カーペンター・レーシング |
2015年 | ダラーラ | シボレー | 12 | 30 | CFHレーシング |
2016年 | ダラーラ | シボレー | 20 | 31 | エド・カーペンター・レーシング |
2017年 | ダラーラ | シボレー | 2 | 11 | エド・カーペンター・レーシング |
2018年 | ダラーラ | シボレー | 1 | 2 | エド・カーペンター・レーシング |
2019年 | ダラーラ | シボレー | 2 | 6 | エド・カーペンター・レーシング |
2020年 | ダラーラ | シボレー | 16 | 26 | エド・カーペンター・レーシング |
2021年 | ダラーラ | シボレー | 4 | 5 | エド・カーペンター・レーシング |