インナー・テンプル

ロンドンの建築物

インナー・テンプル (The Honourable Society of the Inner Temple) は、ロンドン中心部シティテンプル地区にある法曹院である。ロンドンに4つある法曹院の1つで、他にミドル・テンプルテンプル教会を共有)、グレイ法曹院リンカーン法曹院がある。法曹院は法廷弁護士の養成・認定に関する独占的な権限を持ち、イングランドウェールズのすべての法廷弁護士および裁判官は4つの法曹院のいずれかに所属することが法律によって義務づけられている[1]

Inner Temple

インナー・テンプルはシティの域内にあるが「リバティ」(Liberty) と呼ばれる自治体としての地位をもっており、シティの管轄下にはない。 ロンドン地下鉄の最寄り駅はテンプル駅

概要

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テンプル教会(イングランド国教会
教会はミドル・テンプルと共有している。
 
King's Bench Walk
 
Crown Office Row
 
Inner Temple Gardens

インナー・テンプルは法廷弁護士の育成・認定を行う非営利の協会組織である。他の3つの法曹院同様に、5世紀以上におよぶ歴史を持ち、その敷地内に図書館、宿泊施設、ダイニング、チャペル、庭園などを持つ。他の法曹院と同様にインナー・テンプルがいつ頃成立したのか、定かではない。インナー・テンプルが記録に登場するのは1460年[2]国権に正式にステータスを認められたのが1608年であるが[3]、インナー・テンプルは13世紀前半頃までその歴史を遡れると考えられている[4]。記録に残っている1460年を基準にすると、インナー・テンプルは2番目に古い法曹院ということになる。ただし4つの法曹院は伝統的に同格であり、どの法曹院が最古かという論争はしないことになっているので、公式に最古の法曹院が決まっているわけではない。

インナー・テンプルがあるのは、かつてテンプル騎士団が開拓し"The Temple" (テンプル)と今でも呼ばれている場所である。12世紀、テンプル騎士団はこの場所に宿泊施設や食堂、国王が滞在するための建物、貯蔵庫、厩舎、そしてテンプル教会(800年以上経て現存するイングランド国教会の教会)などを建てた。記録によるとエルサレム総主教Patriarch Heraclius1185年2月10日にイングランド国王ヘンリー2世とともにテンプルの開所式を執り行ったとある。王はたびたびテンプルに滞在した。例えばイングランド王ジョン1215年、テンプル滞在中に男爵などの貴族から国王の権限の制限と彼らの権利の拡大を突きつけられている。これが同年、マグナ・カルタにつながり、その調印の場にはテンプル騎士団の代表も立ち会っている。このようなテンプル騎士団とイングランド王室との蜜月関係に守られ、テンプルはある種の特区のような形に発展した。この”特区”は13世紀ロンドンの金融取引の一翼を担うようになる。そして金融取引の増大とともにテンプルには法曹関係者が住み着くようになった。しかし、テンプル騎士団は1290年までに聖地エルサレムを完全に失い、1312年ヴィエンヌ公会議で解散を命じられるまで急速に凋落した。これに伴い、"特区"としてのテンプルの隆盛にもかげりが見え始める。

テンプルが金融取引の地から現在まで続く法曹養成の地に変貌した大きな要因は1339年ヨークに移転していた中央法廷がロンドンのウエストミンスターに戻ってきたことにある。1340年代には原始的な法曹関係者組織が整備されていた記録があり、そこで法学の講義が行われていた。ところが1381年に起きたワット・タイラーの乱により多くの建物が破壊されしまう。さらに、原因が定かではないが、テンプルにあった法曹院が1388年までにインナー・テンプルとミドル・テンプルの2つに分かれたと考えられている。以来、テンプルの東半分がインナー・テンプルの敷地となる。しかし、14世紀のインナー・テンプルについては直接的な資料がなく、1400年以前にインナー・テンプルの会員だったと判明しているのは、William Gascoigne などたった5名のみである。

15世紀、イングランド北部出身者が多く集まったインナー・テンプルの生徒の多くはジェントリまたは貴族階級出身者で、真剣に法曹を目指すものは希であった。しかし、模擬裁判などを通じての教育や寮での集団生活など現代に続く法曹院教育がこのころ形作られていく。そして15世紀後半、インナー・テンプルは最初の黄金期を迎える。イングランド国王リチャード3世の主な法律顧問職をインナー・テンプル会員が独占したのだ。16世紀コモン・ローの発展に伴い、他の法曹院と同様にインナー・テンプルも拡大期に入る。16世紀後半のインナー・テンプルには弁護士事務所が100以上もあり、法廷弁護士候補生も150名以上在籍していた。しかし、17世紀中盤の1642年エッジヒルの戦いからイングランド内戦に発展すると、内戦終結までの4年間インナー・テンプルは閉鎖される。18世紀から19世紀にかけてはイギリス帝国の発展・拡大にともない、インナー・テンプルの会員にイングランド人ではない者が増える。この頃、インナー・テンプル内の多くの建物が建て替えられ、ヴィクトリア朝風の力強い建築物に変わった。また20世紀に入ると女性にも法曹院の門戸が開かれ、1922年に女性初の法廷弁護士がインナー・テンプルから輩出されている。

インナー・テンプルで現存する建物で最古のものは"King's Bench Walk"と呼ばれる1680年頃に建てられたビルである。設計者はロンドン大火後にセント・ポール大聖堂などを手がけたクリストファー・レンである。この建物はイギリス指定建造物一級に認定されており、法律によって保護されている。またインナー・テンプル・ホールと呼ばれる建物の一部は中世のテンプル騎士団が建設した "buttery"と呼ばれる食料貯蔵庫を部分的に再利用している。"Crown Office Row"と呼ばれる建物群は1882年まで、大法官庁 (Chancery) の国璽部があったことに由来している。父がインナー・テンプルで働いていたためか、小説家チャールズ・ラムはこの建物で生を受けている。インナー・テンプルの図書館は1506年には記録に登場する。現在7万冊の司法関係書籍を揃えるこの図書館は、カナダ香港インド共和国パキスタン・イスラム共和国カリブ諸国の司法関係書籍も収集している。なお、"King's Bench Walk"の1棟を除くインナー・テンプルの建築物は1941年ナチス・ドイツによるロンドン空襲"the Blitz"により大きな被害を受け、図書館にあった多くの蔵書や資料も焼失している。このため、現在のインナー・テンプルの建物の多くは第二次世界大戦後に大規模な改修または完全な建て替えを経験している。

インナー・テンプルは『ダ・ヴィンチ・コード』など数々の小説や映画の舞台になっている。インナー・テンプルの敷地には誰でも無料でその敷地に入ることができ、James Piers St Aubyn設計でテムズ川沿いの美しい庭やヴィクトリア朝時代の建物を見学することが出来る(ただし建物内部の見学には事前予約とツアー代金が必要)。

著名な関係者

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英連邦大英帝国の影響下にあった国々にはコモン・ローという中世イングランドのプランタジネット朝に生まれた法体系を採用している国が多く、また歴史的経緯からそれらの国々とイギリスの法曹の人的交流も盛んである。そのためインナー・テンプルの関係者には英国のみならず、それらの国からの留学生も多い。なお、下記の分類はあくまで主な活躍分野に基づいている。

政治家

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ガンディー

裁判官

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その他

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ギャラリー

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脚注

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  1. ^ Courts and Legal Services Act 1990 section 27(3)
  2. ^ Inner Temple History”. Inner Temple Library. 2009年6月24日閲覧。
  3. ^ Bar Council - Inner Temple”. Bar Council. 2009年6月24日閲覧。
  4. ^ Inner Temple -A Brief History”. Inner Temple. 2009年6月24日閲覧。

参考文献・参考サイト

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  • John Stow, "A Survey of London (Reprinted from the Text Of 1603)", Adamant Media Corporation, 2001 [1]
  • Hugh Bellot, "The Inner and Middle Temple, legal, literary, and historic associations", Methuen & co. 1902 [2]
  • Bar Council-Inner Temple

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯51度30分49秒 西経0度06分40秒 / 北緯51.51361度 西経0.11111度 / 51.51361; -0.11111