エニセイ川

モンゴルからロシアを流れる川
イェニセイ川から転送)

エニセイ川(エニセイがわ、イェニセイ川、ロシア語: Енисе́й, ブリヤート語: Горлог мүрэн, トゥバ語: Улуг-Хем, ハカス語: Ким суғ, エヴェンキ語: Ионэси 英語: Yenisei)は、ロシアを流れる河川である。北極海に流れ込む最大の水系で、世界でも第5位の長さである(オビ川を5,570キロメートルとした場合には世界第6位)。流域面積ユーラシア大陸で最大の河川でもある(バイカル湖の水を含めるとセントローレンス川を超えて世界最大の水量となる)。

エニセイ川
エニセイ川 2006年7月4日撮影
延長 5,539 km
平均流量 17,380 m³/s
流域面積 2,700,000 km²
水源の標高 -- m
河口・合流先 エニセイ湾英語版
流域 ロシアの旗 ロシア
モンゴルの旗 モンゴル
テンプレートを表示

沿岸では、木材、石炭、鉄などを産出し、それらの輸送(シベリアの河川交通)にも使われる[1]

名称の由来

編集

イェニセイ川の文献初出は唐代中国で7世紀にさかのぼり、この地域の古代クルグス人との接触時になる。『周書』50巻[2]と『北史』99巻[3]に「劔水」が、『新唐書[4]に「劍河」がみえる。さらに元代の『元史』63巻に「謙河」[5]がみえる。これら漢文資料は、イェニセイ川上流部の南方からの接近によるものであった。「劔」(「劍」)、「謙」の語は、突厥碑文のケム(Käm)に比定されている[6]

その語源は、イェニセイ諸語由来[7]、あるいはサモイェード諸語由来[8]が考察されているが、はっきりしない。

この語は、現在では古代に上記言語と深い接触があったと考えられているテュルク諸語トゥバ語のヘム(トゥバ語: хем xem)“川” [9]と、その姉妹語のトファ語のヘム(トゥバ語: hем hem)“川” [10]にのみ残っている。また アルタイ共和国の河川名として、~ケム(南アルタイ語: -кем -kem)が50以上みえ[11]、さらにハカス語でイェニセイ川を示すキム(Ким Kim)がかろうじて残っている[12]

エニセイ川という名前は、エヴェンキ人による呼び名のイオネシ(エヴェンキ語: Ионесcи - Ionessi)に基づくとされる[13]17世紀に西からコサック毛皮交易を求めて流域に入り、「イェニセイ」と呼び始めた。

エニセイという名称の由来に関しては様々な説がある。ウルグ=ヘム(Ulug Khem)の先住民はエニセイ川を「絶え間ない流れ」と呼んだ。エヴェンキ語では「大きな水」を意味するイオネシ(Ionessi)と呼んだ。またテュルク諸語に由来するという説もあり、「母」を意味する「アナ」と「川」を意味する「セイ」が合わさったと解説される。

歴史

編集

モンゴル系・テュルク系民族が住んでいたエニセイ川流域には、17世紀ごろからコサックが進入してきた。毛皮を求めてウラル山脈を越えてオビ川流域の西シベリア平原に進出していたコサックは、河川を利用してシベリアを東西に往復しながら次第に東へと進んできた。16世紀末にはオビ川から東へ伸びるケチ川へコサックが要塞を置き、流域のケット人ヤサクロシア語版(毛皮貢納の税)を課し、ケチ川源流から丘を越えてエニセイ川流域に侵入した。17世紀以降にはエニセイスクアバカンスク、クラスヌイ・ヤール(後のクラスノヤルスク)などの要塞が次々に建てられた。エニセイ川流域は金や毛皮の産地としてロシア帝国に富をもたらしたが、同時に流刑地でもあった。

流域

編集

モンゴルから北へ流れ、シベリア中央部を貫き、北極海の一部であるエニセイ湾英語版に注ぐ。河口は川幅1 - 3キロメートル幅の川が十数本に分かれており、幅50キロメートルの三角州になっている。

上流部は急流で洪水が多く、人口密度は非常に低い。中流部にはいくつかの巨大な水力発電用ダムが建設されており、ロシアの原料生産業を支えている。その一部はソビエト時代の強制労働によるものである。人口稀薄なタイガ地帯を流れ、多くの支流を集めたのち、一年の半分が氷に閉ざされるツンドラ地帯を抜けてカラ海に注ぐ。近年、流量は増加傾向にあり、地球温暖化による永久凍土の融解が要因として指摘されている。北極海の塩分濃度の変化が地球規模の影響をもたらすおそれなどが懸念されている。

上流部

編集
 
クズル付近にあるビー=ヘム川とカー=ヘム川の合流点

エニセイ川は二つの主な源に発する。

エニセイ川はサヤン山脈などに囲まれるミヌシンスク盆地[14]に入り、アバカン川オヤ川ロシア語版トゥバ川英語版などの川を集める。この付近での川沿いの大きな町にはミヌシンスクアバカンクラスノヤルスクなどがある。

バイカル湖

編集
 
エニセイ川流域

長さ320キロメートルで部分的に航行も可能な上アンガラ川(Upper Angara)は、ブリヤート共和国を流れてバイカル湖の北端に流れ込む。なお、バイカル湖に流入する最長の河川は、モンゴルに源流をもち、湖の南東側に三角州を形成して流れ込む長さ992キロメートルのセレンガ川である。その最大の支流はモンゴル中部のハンガイ山脈東麓から流れる。その他の支流には、モンゴルの首都ウランバートルを流れるトーラ川(Tuul)、フブスグル湖からの唯一の流出河川であるエグ川(エギーン川、Egiin Gol)などがある。

アンガラ川

編集

アンガラ川Ангара́、Angara)はバイカル湖から流れ出す長さ1,840キロメートルの川で、この地方の中心都市であるイルクーツクを経て、エニセイ川にはストレルカ(Strelka、北緯58度10分、東経92度99分)で合流する。アンガラ川には四か所のダムがあり、この地方の産業のために電力を供給している。イルクーツクにある44メートルのダムには出力650MWの発電所がある。500キロメートル下流のブラーツクには1960年代に124mのブラーツクダムが完成し、出力4500MWの発電所が造られ、ダム湖はその形状から「龍の湖」と呼ばれている。東サヤン山脈の北麓に発する支流のオカ川とイヤ川が「龍」の両あごを形成し、アンガラ川が400キロメートルにおよぶ長い尾を形成する。250キロメートル下流のウスチ=イリムスクには同じくらいの大きさの新しいダムがあり(ここで合流する支流のイリム川にも大きなダムがある)、さらに400キロメートル下流のボグチャニにもダムがある。さらに新しいダムを造る計画もあるが、環境への影響の大きさから反対の声があり建設予算がついていない。

拡大し続ける東シベリア石油産業の中心地でユコスの大精油所の所在地、アンガルスクは、イルクーツクの50キロメートル下流に位置する。大きなパイプラインが西へ伸び、さらに日本海岸のナホトカ日本向けの石油を輸送するパイプラインも建設されようとしている。東シベリアの埋蔵資源の限度はまだ明らかではなく、イルクーツクの北200キロメートルのコヴィクチンスコエ(コビクタ、Kovyktinskoye)、およびイルクーツクの北500キロメートルの中央シベリア高原にあるヴェルフネチョンスコエ(ベルフネチ、Verkhnechonskoye)など大きなガス田や油田が開発途上にあり、東アジアへの輸出が期待されている。

下エニセイ

編集
 
クラスノヤルスク橋(クラスノヤルスク付近でエニセイ川を渡る鉄道橋
 
ドゥディンカ付近のツンドラ地帯

エニセイ川とアンガラ川がストレルカで合流した後、大カズ川(Great Kaz)が300キロメートル下流で合流する。この川は、オビ川支流のケート川(ケチ川、Ket)と、オビ・エニセイ運河で結ばれていたことが特筆される。エニセイ川は幅が広くなり、川には無数の中州が出現し、多くの支流が合流して流れは大きくなる。特に大きな支流は、長さ1,800キロメートルを超えるポドカメンナヤ・ツングースカ川、および3,000キロメートル近い長さのニジニャヤ・ツングースカ川という右岸側の二つの大河で、いずれも東の中央シベリア高原から流れている。これらの川の上流に当たるツングースカ地方はツングースカ大爆発で知られるが、現在は石油天然ガスの探査や開発が進んでいる。ニジニャヤ・ツングースカ川との合流点を過ぎると、エニセイ川は北極圏に入り、ツンドラ地帯が広がる。

エニセイ川は年の半分以上は凍結する。何もしないと無数の氷が川をせき止めて洪水が発生してしまうため、爆発物を使い氷を吹き飛ばし水を流す作業が行われる。ドゥディンカは、クラスノヤルスクと定期客船で結ばれる最下流の港町である。河口の先では幅50キロメートル、長さ250キロメートルのエニセイ湾が形成されている。この部分では砕氷船が航路を確保するために使われる。

氷期には、北極への流路は氷床で閉ざされていた。まだ詳しいことは分かっていないが、最終氷期にはエニセイ川やオビ川は西シベリア低地を覆うほどの巨大な湖(西シベリア氷河湖)に流れ込んでいたとみられる。またこの湖の水は北極海に出られないため、最終的には黒海に向かっていたと考えられている。

河口部にブレホフスキー諸島ロシア語版があり、一帯はアオガンコレゴヌス属英語版シベリアチョウザメ英語版ホッキョクギツネの生息地である。1994年にラムサール条約登録地となった[15]

支流

編集
 
クラスノヤルスク付近でのエニセイ川。クラスノヤルスク橋から西側を望む

下流より記載

河川施設

編集

脚注

編集
  1. ^ エニセイ川. コトバンクより。
  2. ^ 令狐徳棻等撰『周書』1971 中華書局; 908
  3. ^ 李延壽撰『北史』1974 中華書局; 3286
  4. ^ 宋濂撰『新唐書』1975中華書局; 6148
  5. ^ 宋濂撰『元史』1976中華書局; 1574
  6. ^ Thomsen 1896: 100, 123, 140
  7. ^ Hambis L. 1956 “Notes sur Kam Kem Nom de L'Yenissei Superieur.” ''Journal Asiatique'', vol. 244, 281‒300
  8. ^ Vásáry I. 1971 “Käm, an Early Samoyed Name of Yenisey,” L. Legeti (ed.) ''Studia Turcica'', Budapest: Akademiai Kiado, 469‒482.
  9. ^ Тенишев Э.Р., Тувинско-русский словарь: около 22 000 слов // Москва : Советская энциклопедия. 1968. с. 473.
  10. ^ Рассадин В. И., Словарь тофаларско-русский и русско-тофаларский // Санкт-Петербург : Дрофа. 2005. с. 55.
  11. ^ Молчанова О. Т., Топонимический словарь Горного Алтая // Горно-Алтайское отделение Алтайского книжного издательства. 1979. С. 55—62.
  12. ^ Чанков Д. И., Русско-хакасский словарь: 31000 слов // Государственное издательство иностранных и национальных словарей. 1961. с. 960.
  13. ^ Словаря современных географических названий, ссылка [1]
  14. ^ 青銅器時代に栄えたアファナシェヴォ文化紀元前3500年 - 紀元前2500年頃)や、タガール文化(ミヌシンスク遺跡、紀元前3000年頃)で知られる。巨大なクルガンが発見されたため、クルガン仮説との関係が提唱されている。
  15. ^ Brekhovsky Islands in the Yenisei Estuary | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1997年1月1日). 2023年4月4日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集