イェスデル (カンクリ部)

カンクリ部出身で、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人

イェスデルモンゴル語: Yesüder、? - 1288年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カンクリ部の出身。『元史』などの漢文史料では也速䚟児(yĕsùdǎiér)、もしくは也速台児(yĕsùtáiér)と記される。

概要

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イェスデルはチンギス・カンの時代よりモンゴル帝国に仕えるようになったアイ・ベクの息子で、アイ・ベクがクチュの南宋親征中に病没すると地位を継承して軍を率いるようになった。中統元年(1260年)に第4代皇帝モンケが急死し弟のクビライとの開で帝位継承戦争が勃発すると、イェスデルはクビライ派についてアラムダールクンドゥカイの討伐に加わり、続いて李璮の乱鎖圧にも加わった。

帝位継承戦争がクビライ派の勝利に終わると今度は南宋との戦いに従軍し、襄陽の包囲戦では百丈山・鸛子灘の攻略に功績を挙げた。襄陽への直接攻撃が始まると、イェスデルは鎧をつけて真先に城壁にのぼる活躍を見せ、この戦いぶり賞して銀100両を与えられた。至元14年(1277年)からは福建方面の侵攻に加わり、復州の戦いでは敵将を打ち取る功績を挙げ、この功績によってまず百人隊長(ジャウン)に、次いで千人隊長(ミンガン)に昇格となった。至元16年(1279年)には管軍総管とされている。

江南の平定後は懐遠大将軍・管軍万戸に任じられ、江淮一帯の戦艦教百隻を率いて日本遠征に参加したが、日本の征服には失敗して帰還した。至元20年(1283年)には泰州万戸府のダルガチに任じられ、至元23年(1286年)には昭勇大将軍・欽察親軍都指揮使とされた。至元24年(1287年)、ナヤンの乱鎮圧戦にも参加した。その後(至元25年もしくは大徳3年)、イェスデルは亡くなり、成武郡公に追封された。息子は7人おり、それぞれ教化的、黒廝、黒的、延寿、拜顔、完沢帖木児、哈剌章といった[1][2]

なお、元史巻133列伝20に立伝される「也速䚟児」とその父「愛伯」は巻123列伝10の「艾貌」とその息子「也速台児」と同一人物である[3]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻123列伝10艾貌抜都伝,「艾貌抜都、康里氏。初従雪不台那演征欽察、攻河西城、収西関、破河南;継従定宗略地阿奴、皆有功。又従四太子南伐、命充怯憐口阿答赤孛可孫。又従兵渡江攻鄂、以疾卒於軍。子也速台児、従討阿藍答・渾都海、征李璮、伐宋、累功授管軍総把。至元十四年、従攻福建興化、招古田等処民五千餘戸、以功升武略将軍・千戸、賜金符。又招手号新軍二千五百餘人、升宣武将軍・総管、賜虎符。有旨征日本、也速台児願效力、賜以弓矢、進懐遠大将軍・万戸。二十年、授泰州万戸府達魯花赤。二十三年、遷昭勇大将軍・欽察親軍都指揮使。二十四年、従征乃顔有功。明年卒。後贈金吾衛上将軍、追封成武郡公、諡顕敏」
  2. ^ 『元史』巻133列伝20也速䚟児伝,「也速䚟児、康里人。父愛伯、伯牙兀氏。太祖時率衆来帰。初、以五十戸従軍南征、力戦而死。也速児世其官。従丞相伯顔経略襄樊、攻百丈山・鸛子灘功居最。及襄樊囲合、即被甲先登、賞銀鈔百両。明年、破復州、殺其将、以功陞百戸。主帥言賞不足酬其労、世祖賜金符、加為千戸、督五路招討。至元十六年、改金虎符、管軍総管。江南平、録功、進懐遠大将軍・管軍万戸。領江淮戰艦数百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戸、衣服・弓矢・鞍轡有加。二十二年、移鎮泰州。時籍民丁為兵、得万人、以也速䚟児為欽察親軍指揮使統之。大徳三年、以疾卒。子七人。曰教化的。曰黒廝、襲父職、以疾卒。曰黒的、牧馬同知。曰延寿、襲兄職。曰拜顔、領哈剌赤。曰完沢帖木児、広徳路万戸達魯花赤。曰哈剌章」
  3. ^ 屠寄蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下

参考文献

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