クンドゥカイモンゴル語: Qunduqai,中国語: 渾都海,? - 1260年)とは、モンゴル帝国に仕えたトランギト・ジャライル氏族出身の軍団長の一人。帝位継承戦争ではアラムダールとともにアリクブケ派の主力軍の指揮官として活躍したが、最終的にはクビライ派の軍勢に敗れて殺された。

元史』などの漢文史料では渾都海(húndōuhǎi)、『集史』などのペルシア語史料ではقوندقای(qūndqāī)と記される。

概要

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『集史』「ジャライル部族志」にはトランギト・ジャライル部出身のジョチ・ダルマラの5人の息子の一人として名前が挙げられている[1]。モンゴル帝国第4代皇帝モンケによる南宋親征が始まると、クンドゥカイはモンケ直属の部隊に従軍した。『五族譜』には「モンケ・カーンの没時、彼をdūlī sābad城塞攻撃の指揮官に充てた」と記されており、モンケが四川方面において病で亡くなった時、モンケの率いていた軍勢の指揮権を継承したのがクンドゥカイであった[2]

モンケが急逝した時、状況からいって最も次のカーンに相応しい人物と目されていたのは末弟アリク・ブケであったが、クビライは南宋遠征軍の大部分を味方につけて上都において一方的にクリルタイを開催し、帝国全体の総意を得ないままにカーンを称した。これに対し、アラムダール、ブルガイら元モンケの側近達は反発し、旧暦11月にカラコルムにおいてアリク・ブケをカーンに推戴した[3]

モンケの死亡時、モンケ直属の軍隊は陝西〜四川一帯に散在していたが、劉タイピン(太平)、コルカイ(霍魯海)、カラ・ブカ(哈剌不花)、そしてクンドゥカイといった諸将に率いられていた。1260年(中統元年)6月、クンドゥカイらはクビライ派から派遣された使者のドロタイ(朶羅台)を殺害してアリク・ブケ派につくことを明らかにし[4]、ミール・ホージャを成都に、キタイ・ブカを青居に派遣して援軍の要請を行った[5]。しかし、キタイ・ブカはクビライ派についたオングト人の汪惟正によって殺されてしまい[6]、また同じくクビライ派の廉希憲商挺らによって劉太平も謀殺されてしまい、陝西一帯はクビライ勢力の支配下に入った[7]。この時、廉希憲はクンドゥカイの置かれた状況を評して、「クンドゥカイは勢いに乗じて東進し我が軍を攻撃することはできない。何故ならば、今クンドゥカイの下にいる兵は状況に流されてアリク・ブケ派についた者が大多数で、意思が統一されていないからだ。もしクンドゥカイが敵対勢力(クビライ派)に誼を通じようとする者を捕らえるようになれば、疑心暗鬼を生じて仲間割れを始めるだろう……」と幕僚に語っている[8]

このような状況のため、やむなくクンドゥカイらはカラコルムから南下してきていたアラムダール率いる軍勢と合流するため、六盤山を引き払って北上を始めた。甘州においてクンドゥカイ軍とアラムダール軍は合流を果たしたものの、廉希憲が予想したように諸将間の意見の一致を見ず、最終的にカラ・ブカ率いる軍勢は行動をともにせずにモンゴル高原に帰還することになった[9]。残されたクンドゥカイとアラムダールは軍勢を再編して南下を開始し、まず河西を支配するコデン・ウルス(オゴデイ・ウルスの一派)を攻撃してその主要都市西涼府を奪い取り拠点とした[10]

クンドゥカイらの攻撃によって大打撃を受けたコデン・ウルス当主のジビク・テムルは関中に逃れ、クビライ勢力の中には河西方面を放棄すべきではないかという声も上がったが、廉希憲らの反対によってクンドゥカイ・アラムダール討伐のためオゴデイ家のカダアン・オグルらが派遣されることとなった[11]。カダアンの軍勢は陝西方面に権益を持つオングト部の汪良臣[12]、アンチュル[13]らと合流し、最終的にカダアン、バチン(八春,Bačin)、汪良臣の3名がそれぞれ軍団を率いてクンドゥカイ・アラムダール軍に相対した。

アリク・ブケ派の軍勢とクビライ派の軍勢が対峙したのは非常に風の強い日だったため、汪良臣は軍士に命じて馬を下り刀剣を用いて攻撃させ、汪良臣手ずから敵兵を数十人斬る奮戦ぶりもあってアラムダール軍は劣勢に陥った。更にカダアン軍はアラムダール軍の逃走経路に待ち伏せてこれを大いに破り、遂に主将たるアラムダール・クンドゥカイを殺害した[14][15]。アラムダール、クンドゥカイの首は持ち帰られて京兆府で晒し首にされ[16]、クンドゥカイらの敗戦によって西方戦線はクビライ派の勝利に終わった[17]

東アジア方面ではクンドゥカイの子孫について全く記録がないが、『集史』によるとフレグの征西に従軍したクンドゥカイの息子ブグンはフレグ・ウルスにおいてグルジスターンの総督に任じられていたという。また、ブグンの息子テムル・ブカはコルチ(箭筒士)職に就いていたと記される[1]

トランギト・ジャライル部

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  • コゴチャ(Qoγoča >豁火察/huōhuŏchá)

脚注

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  1. ^ a b 志茂2013,517-518頁
  2. ^ 志茂2013,540頁
  3. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[歳己未]十一月丙辰……時先朝諸臣阿藍答児・渾都海・脱火思・脱里赤等謀立阿里不哥」
  4. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年六月]戊戌……渾都海反」
  5. ^ 『元史』巻126列伝13廉希憲伝,「憲宗崩、訃音至……且命希憲先行、審察事変。対曰『劉太平・霍魯海在関右、渾都海在六盤、征南諸軍散処秦蜀、太平要結諸将、其性険詐、素畏殿下英武、倘倚関中形勝、設有異謀、漸不可制、宜遣趙良弼往覘人情事宜』従之。……趙良弼還自関右、奏劉太平・霍魯海反状、皆如希憲言……。未幾、断事官闊闊出遣使来告:渾都海已反、殺所遣使者朶羅台、遣人諭其党密里火者於成都・乞台不花於青居、使各以兵来援、又多与蒙古軍奥魯官兀奴忽等金帛、尽起新軍、且約太平・霍魯海同日倶発」
  6. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「[汪]惟正……初、憲宗遣渾都海以騎兵二万守六盤、又遣乞台不花守青居、至是、渾都海叛、乞台不花発兵為応、惟正即命力士縛乞台不花、殺之」
  7. ^ 『元史』巻163馬亨伝,「中統元年……時阿藍答児等叛、亨与宣撫使廉希憲・商挺合謀、誅劉太平等、悉定関輔」
  8. ^ 『元史』巻126列伝13廉希憲伝,「西川将紐璘奥魯官将挙兵応渾都海、八春獲之、系其党五十餘人於乾州獄、送二人至京兆、請並殺之。二人自分必死、希憲謂海僚佐曰『渾都海不能乗勢東来、保無他慮。今衆志未一、猶懐反側、彼軍見其将校執囚、或別生心、為害不細……』」
  9. ^ 『元史』巻159商挺伝,「中統元年夏五月、至京兆。哈剌不花者、征蜀時名将也、渾都海嘗為之副、時駐六盤山、以兵応阿里不哥……。六盤之兵既北、而阿藍答児自和林引兵南来、与哈剌不花・渾都海遇於甘州。哈剌不花以語不合、引其兵北去、阿藍答児遂与渾都海合軍而南。時諸王合丹率騎兵与八春・汪良臣兵合、乃分為三道以拒之。既陣、大風吹沙、良臣令軍士下馬、以短兵突其左、繞出陣後、潰其右而出、八春直搗其前、合丹勒精騎邀其帰路、大戦於甘州東、殺阿藍答児・渾都海
  10. ^ 『元史』巻124玉笏迷失伝,「玉笏迷失、少有勇略、渾都海叛於三盤、時玉笏迷失守護皇孫脱脱営塁、率其衆与渾都海戦、敗之。追至只必勒、適遇阿藍答児与之合兵、復戦、玉笏迷失死之」
  11. ^ 『元史』巻126廉希憲伝,「渾都海聞京兆有備、遂西渡河、趨甘州、阿藍答児復自和林提兵与之合、分結隴・蜀諸将、又使紐璘兄宿敦為書招紐璘。……渾都海・阿藍答児合軍而東、諸将失利、河右大震、西土親王執畢帖木児輜重皆空、就食秦雍。朝議欲棄両川、退守興元、希憲力言不可、乃止。会親王合丹及汪惟良・八春等合兵復戦西涼、大敗之、俘斬略尽、得二叛首以送、梟之京兆市」
  12. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「世祖即位、阿藍答児・渾都海逆命、刼六盤府庫、西垂騷動、詔良臣討之……。会大風揚沙、晝晦、良臣手刃数十人、賊勢沮、衆軍乗勝搗之、賊大潰、獲阿藍答児・渾都海、殺之、西鄙輯寧」
  13. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「中統元年、世祖即位、親王有異謀者、其将阿藍答児・渾都海図拠関隴。時按竺邇以老、委軍於其子。帝遣宗王哈丹・哈必赤・阿曷馬西討。按竺邇曰『今内難方殷、浸乱関隴、豈臣子安臥之時耶。吾雖老、尚能破賊』。遂引兵出刪丹之耀碑谷、従阿曷馬、与之合戦。会大風、晝晦、戦至晡、大敗之、斬馘無算。按竺邇与総帥汪良臣獲阿藍答児・渾都海等」
  14. ^ 『元史』巻159商挺伝,「丁巳、憲宗命阿藍答児会計河南・陝右。……中統元年夏五月、至京兆。哈剌不花者、征蜀時名将也、渾都海嘗為之副、時駐六盤山、以兵応阿里不哥……。六盤之兵既北、而阿藍答児自和林引兵南来、与哈剌不花・渾都海遇於甘州。哈剌不花以語不合、引其兵北去,阿藍答児遂与渾都海合軍而南。時諸王合丹率騎兵与八春・汪良臣兵合、乃分為三道以拒之。既陣、大風吹沙、良臣令軍士下馬、以短兵突其左、繞出陣後、潰其右而出、八春直搗其前、合丹勒精騎邀其帰路、大戦於甘州東、殺阿藍答児・渾都海」
  15. ^ 『元史』巻132列伝19阿塔赤伝,「阿塔赤従憲宗征西川軍於釣魚山、与宋兵戦有功、帝親飲以酒、賞以白金。阿里不哥叛、従也里可征之。至寧夏、与阿藍答児・渾都海戦、率先赴敵、矢中其腹、不懼」
  16. ^ 『元史』巻126列伝13廉希憲伝,「渾都海聞京兆有備、遂西渡河、趨甘州、阿藍答児復自和林提兵与之合、分結隴・蜀諸将、又使紐璘兄宿敦為書招紐璘。……渾都海・阿藍答児合軍而東、諸将失利、河右大震、西土親王執畢帖木児輜重皆空、就食秦雍。朝議欲棄両川、退守興元、希憲力言不可、乃止。会親王合丹及汪惟良・八春等合兵復戦西涼、大敗之、俘斬略尽、得二叛首以送、梟之京兆市」
  17. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「中統元年……是月(九月)、阿藍答児率兵至西涼府、与渾都海軍合、詔諸王合丹・合必赤与総帥汪良臣等率師討之。丙戌、大敗其軍於姑臧、斬阿藍答児及渾都海、西土悉平」

参考文献

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  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年