アルバート・フレデリック・ママリー
アルバート・フレデリック・ママリー(Albert Frederick Mummery 1855年9月10日 - 1895年8月24日?)は、イギリスの登山家である[1]。アルプス銀の時代を代表するスターとして知られる[1]。
1855年9月10日イギリスのケント州ドーバーに産まれた[1]。兄弟と製革業に従事しつつ、経済学の研究生活をしこの分野で著作も出している[1]。強度の近視で体躯も決して頑強ではなかったが、1871年ブルイユからツェルマットへテオドール峠を越えた時にアルプスに魅せられて登山家になり、1879年マッターホルンのツムット稜初登攀に成功して名声を得た[1]。その後コル・ド・リオン初登攀、グレポン初登頂などで名声を高め、1888年コーカサスに遠征してディフタウに初登頂した[1]。
1888年に英国山岳会会員に推挙されたが、この頃入会は至難であり、推薦委員会で反対の黒球が1割あれば推薦されず、保守派登山家から誤解や偏見を受けていたママリーは一度拒否された[1]。1892年以後はガイドレス登山に変わり1893年ルカン針峰初登頂、1894年モンブランのブレンバ稜ガイドレス初登攀などを成し遂げた[1]。
山道具への貢献
編集現在定着している、クライミングロープを結び合う人数は2人であるが、これを誰よりも早く主張したのがママリーであった[1]。また当時としては軽量[2]だったママリー・テントを考案[2]した。
出典
編集参考文献
編集- 堀田弘司『山への挑戦』岩波新書 ISBN 4-00-430126-2