アラビア半島

アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島

アラビア半島(アラビアはんとう、アラビア語: شبه الجزيرة العربية、単にアラビアとも)は、アジアアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島である。アラビア語では「アラブの島」「アラブの半島」を意味するジャズィーラト・アル=アラブと呼ばれている。半島としての面積は世界最大である[1]。漢字表記は亜剌比亜。

アラビア半島
座標 北緯19度29分29秒 東経47度26分56.5秒 / 北緯19.49139度 東経47.449028度 / 19.49139; 47.449028座標: 北緯19度29分29秒 東経47度26分56.5秒 / 北緯19.49139度 東経47.449028度 / 19.49139; 47.449028
面積 3,237,500 km2
最高標高 3,666 m
最高峰 ナビー・シュアイブ山
最大都市 サウジアラビアの旗 サウジアラビア リヤド
所在海域 紅海アラビア海
所属大陸・島 ユーラシア大陸
所属国・地域 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦
イエメンの旗 イエメン
イラクの旗 イラク
オマーンの旗 オマーン
カタールの旗 カタール
クウェートの旗 クウェート
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
バーレーンの旗 バーレーン
ヨルダンの旗 ヨルダン
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地理

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紅海、アカバ湾、アラビア海、アデン湾ペルシア湾オマーン湾等に囲まれており、北の付け根はイラクヨルダンにあたる。

アラビア半島はその面積の大部分が砂漠に覆われており、半島の中央から北部にかけてはダフナ砂漠およびナフド砂漠、南東にはルブアルハリ砂漠が広がっている。一方で半島南部から南東部にかけての沿岸地域は季節風の影響により農耕に適した温暖湿潤気候となっている。紅海沿いには南北に山脈が連なっており、最高峰は半島南西部のナビー・シュアイブ山で標高は3,666メートル[2]

政治的には、サウジアラビアアラブ首長国連邦カタールオマーンイエメンに分かれており、カタールとサウジアラビアの沖にバーレーンがある。サウジアラビアはアラビア半島の80%の面積を占めているが、その広大な国土の大部分は不毛な砂漠地帯であり、耕作地は全体のわずか1.4%にすぎない[3]

アラビア語における名称

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現代におけるアラビア語名称は شِبْهُ الْجَزِيرَةِ الْعَرَبِيَّةِ(sibh al-jazīra al-ʿarabīya, シブフ・アル=ジャズィーラ・アル=アラビーヤ, 意味は「アラビアの半島」「アラブの半島」。)(アラビア語での発音:shibhu-l-jazīrati-l-ʿarabīya(h), シブフ・ル=ジャズィーラティ・ル=アラビーヤ)である。

しかし元々の伝統的名称は جَزِيرةُ العَرَبِ(jazirat al-ʿarab, ジャズィーラト・アル=アラブ、意味は「アラブ人たちの島」「アラブ人たちの半島」)が長い間使われており、現代においても定冠詞を伴った اَلْجَزِيرَة(al-jazīra, アル=ジャズィーラ)だけでアラビア半島を指すことが多い。

アラビア語の شِبْه جَزِيرَةٍ(sibh jazīra, ジブフ・ジャズィーラ)という用語は後代になって作られた[4]もので、本来アラビア語では名詞 جَزِيرَة(jazīra, ジャズィーラ)が「島」「半島」「中洲」「川に囲まれた地域」を指すものだった[5]。海に限らず川に囲まれた・川が周囲に多い場所を呼ぶことにも使われ、海に突き出た地形かどうかは問わないため اَلْجَزِيرَة(al-jazīra, アル=ジャズィーラ)と呼ばれる地域は内陸部にも存在。シリア北部からイラクにかけて広がるティグリス川とユーフラテス川にはさまれたメソポタミア区域も同じく「アル=ジャズィーラ」の名で通っている。

なお中世に刊行されたアラビア語辞典やクルアーン注釈書における定義によると、アラビア半島は「アラビア湾(ペルシア湾)と紅海、大河川ティグリス川・ユーフラテス川という水域によって各方角が囲まれた土地」となっている。

アラビアの語源

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「アラビア」という語は「アラブの土地」を意味する古代ギリシャ語に由来しており、「アラブ」という語は「アラビア語を母語とする者」という意味がある[2]。しかし、これではトートロジーである。既にローマ帝国のときからアラビア属州という名前が存在することから、それより以前からこの地域はアラビアと呼ばれていたことになる。記録ではアッカド人が彼らのことをArabiと読んでいたことが知られており、最も古い物では紀元前853年のアッシリアの碑文に書かれた被征服民リストの中に「アラブの王」という用例が見られる[2]旧約聖書創世記2章11節に出てくる「ハビラ」をアラビア半島とする説がある。

歴史

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  • 100万年前頃 アフリカ大陸のタンザニアを起源とするホモ・エレクトスがアラビア半島に定住し始める。シナイ半島を経由してアラビア半島の北側から侵入したグループと、紅海のバーブ・アルマンデブ海峡を渡りアラビア半島の南側から侵入したグループの2つのグループがいたとされる[6]
  • 7万年前頃 現生人類がアフリカ東部の突端アフリカの角からアラビア半島へ出アフリカを果たし[7]、その後全世界に拡散する。
  • 2万4000年前頃 アラビア半島の多雨な時代が終わり乾燥化が始まる。
  • 1万5000年前頃 アラビア半島が乾燥状態になる。
  • 1万年前頃 旧石器時代に入る。多くの岩絵の遺跡が発見されている[8]
  • 紀元前4000年紀末 ペルシア湾岸でメソポタミア文明インダス文明との交易で栄えたとされるディルムンの名が記録に現れる[9][10][11]
  • 紀元前3000年頃 アラビア半島で灌漑農業が始まる[12]
  • 紀元前2000年頃 ラクダを家畜化することに成功し、アラビア半島の人々が陸上交易の担い手として活躍する[13]
  • 紀元前1000年頃 鉄器時代に入る。アラビア半島南部では諸王国が立ち、乳木などの香料を生産してエジプトエーゲ海地方に輸出し繁栄する[14]
  • 紀元前8世紀頃 史料に初めてアラビア半島の国家の名が現れる。その国はサバアと呼ばれ、ダムを利用した灌漑農業や香料の生産、エジプトからメソポタミア、インドに渡る海上貿易などによって経済的に豊かな国であったとされる[15]
  • 紀元前323年 アレクサンドロス3世によるアラビア遠征の計画が立てられるも、アレクサンドロス3世の急死により実現しなかった[14]
  • 紀元前2世紀頃 イエメンにヒムヤル王国が成立[16]。気候変動による乾燥化、エジプトによる海洋交易網の整備に伴う陸上交易の縮小などにより、南アラビアの諸国が衰退する[17]
  • 紀元前26年-25年 ローマ帝国によるアラビア遠征[14]
  • 1世紀後半から2世紀頃 ローマ帝国の迫害により追われたユダヤ人がアラビア半島に移住しはじめる[18]
  • 5世紀頃 商業発展し、マッカとヤスリブ(マディーナの旧称)を中心に栄える。
  • 570年頃 マッカにイスラム教の開祖ムハンマド誕生。
  • 622年 初期イスラム教団がマッカを離れ、本拠地をヤスリブに移す。ヤスリブは「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(略称:マディーナ)に改名。これをヒジュラ(聖遷)と称する。この年をイスラムの暦であるヒジュラ暦(1年を354日とする太陰暦)の元年とする。
  • 630年 ムハンマドのマッカ入城。ムハンマド率いるイスラム軍がアラビア半島統一。
  • 632年 ムハンマド死去。初代正統カリフとしてアブー=バクルが選出される。首都はマッカ。
  • 661年 ウマイヤ朝成立。帝国の首都はマッカからウマイヤ家の本拠地ダマスカスに遷都。
  • 10世紀後半 マッカを含む半島西部のヒジャーズ地方は、ファーティマ朝の保護下となる。
  • 12世紀後半 アイユーブ朝建国。ヒジャーズ地方はアイユーブ朝の領土となる。
 
アラビア半島周辺を描いた1707年の絵図

出典

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  1. ^ アラビア”. goo辞書. 2014年5月4日閲覧。
  2. ^ a b c 徳永 (2012) 31-33頁。
  3. ^ サウジアラビアの農林水産業概況”. 農林水産省. 2014年5月4日閲覧。
  4. ^ الأخيرة / إسماعيل الشطي: حاولت إعادة بناء صورة صحيحة لإنسان هذه المنطقة”. 2022年9月29日閲覧。
  5. ^ إسلام ويب - حاشية الدسوقي على الشرح الكبير - باب موات الأرض وإحياءها- الجزء رقم4” (アラビア語). www.islamweb.net. 2022年9月28日閲覧。
  6. ^ 徳永 (2012) 36-37頁。
  7. ^ Searching for traces of the Southern Dispersal Archived 2012年5月10日, at the Wayback Machine., by Dr. Marta Mirazón Lahr, et. al.
  8. ^ 徳永 (2012) 38-40頁。
  9. ^ Crawford, Harriet E. W. (1998). Dilmun and its Gulf neighbours. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 5. ISBN 0521583489 
  10. ^ Jesper Eidema, Flemming Højlundb (1993). Trade or diplomacy? Assyria and Dilmun in the eighteenth century BC. 24. pp. 441–448. doi:10.1080/00438243.1993.9980218. http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00438243.1993.9980218#.UyNb6vmSxfA. 
  11. ^ Dilmun and Its Gulf Neighbours”. Harriet E. W. Crawford. p. 9 (1998年). 2016年5月27日閲覧。
  12. ^ 徳永 (2012) 42頁。
  13. ^ 徳永 (2012) 54-55頁。
  14. ^ a b c 徳永 (2012) 49頁。
  15. ^ 徳永 (2012) 55頁。
  16. ^ 前田、近藤、蔀「古代オリエントの世界」『西アジア史』1、118頁
  17. ^ 徳永 (2012) 57頁。
  18. ^ 徳永 (2012) 199頁。

参考文献

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  • 徳永里砂『イスラーム成立前の諸宗教』 8巻、国書刊行会〈イスラーム信仰叢書〉、2012年。ISBN 978-4-336-05211-7 

関連項目

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外部リンク

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