アグリピヌスfl. 451-461)は西ローマ帝国の軍人。ガリア道のマギステル・ミリトゥム

活動

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アグリピヌスは430年代にウァレンティニアヌス3世の下で軍歴を開始したと考えられている。ヒダティウス英語版の記録によれば、アグリピヌスは451年オータン教区英語版司教エウフロニウス英語版が観測した彗星についての報告書を受け取っている。452年頃、アグリピヌスはガリア道のマギステル・ミリトゥムに任命された。

456年に皇帝アウィトゥスが追放されてマヨリアヌスが皇帝を名乗った。アグリピヌスはマヨリアヌスによって罷免され、アグリピヌスの代わりにアエギディウスが新たなガリア道のマギステル・ミリトゥムとされた。

461年になるとマヨリアヌスが兵士の反乱によって殺害された。新たにセウェルス3世が皇帝として宣言されると、セウェルス3世に従うことを不服としたアエギディウスはソワソン管区で反乱を起こし、ローマ帝国から独立した。セウェルス3世はアグリピヌスをガリア道のマギステル・ミリトゥムに復帰させ、アグリピヌスは461年と462年にマギステル・ミリトゥムであった。462年、アグリピヌスはセウェルス3世の指示により、報賞としてナルボンヌを割譲する条件でゴートテオドリック2世にアエギディウスのソワソン管区を攻略するよう命令した[1][2]

以後のアグリピヌスについては記録が残っておらず、463年にはブルグント人の将軍ゴンディオク英語版が新たなガリア道のマギステル・ミリトゥムに任命されている。

『聖アニアヌス伝』によれば、アグリピヌスがオルレアンを訪問した際、アグリピヌスはオルレアンの司教聖アニアヌス英語版から囚人の解放を依頼された[3]。アグリピヌスは一旦は依頼を拒絶したが、オルレアン滞在中に落石に遭って瀕死の重体となったところを聖アニアヌスによって救われ、アニアヌスへの感謝の印として彼が依頼した囚人を解放したという[3]

脚注

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  1. ^ 鈴木康久『西ゴート王国の遺産 近代スペイン成立への歴史』中公新書、1996年、51頁。ISBN 4121012836 
  2. ^ テオドリック2世は463年にソワソン管区へと侵攻したが、フランク人キルデリク1世の支援を取り付けたアエギディウスに敗北した。
  3. ^ a b 多田哲「紀元千年以前における聖アニアヌス崇敬の展開 −都市における地方的聖人の崇敬形態−」『中京大学教養論叢 第42巻第2号』中京大学、2001年。 

参考文献

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