徳島県立池田高等学校

徳島県三好市にある高等学校
やまびこ打線から転送)

徳島県立池田高等学校(とくしまけんりつ いけだこうとうがっこう)は、徳島県三好市池田町に所在する公立高等学校。略称は池高。

徳島県立池田高等学校
地図北緯34度1分50.22秒 東経133度48分14.59秒 / 北緯34.0306167度 東経133.8040528度 / 34.0306167; 133.8040528座標: 北緯34度1分50.22秒 東経133度48分14.59秒 / 北緯34.0306167度 東経133.8040528度 / 34.0306167; 133.8040528
過去の名称 徳島県立池田中学校
徳島県池田高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 徳島県の旗 徳島県
学区 第二学区
全国募集あり
校訓 質実剛健
設立年月日 1922年
共学・別学 男女共学
分校 三好校辻校
課程 全日制課程
定時制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
探究科
学期 3学期制
学校コード D136220800014 ウィキデータを編集
高校コード 36132B
所在地 778-8506
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示
徳島県立池田高等学校の位置(徳島県内)
徳島県立池田高等学校

設置学科

編集

沿革

編集
  • 1922年 - 徳島県立池田中学校として創立。
  • 1948年 - 学制改革により徳島県池田高等学校と改称、三名分校を設置。
  • 1949年 - 男女共学化。また、高校三原則にはかり徳島県立三好農業高等学校と統合、同校から箸蔵分校を移管し佐馬地と西祖谷に分校を設置、さらに箸蔵昼間分教室を有する総合制池田高等学校として発足。
  • 1950年 - 西祖谷分校に東祖谷教室を設置。
  • 1951年 - 西祖谷分校東祖谷教室と西祖谷分校をそれぞれ祖谷分校・祖谷分校西祖谷教室と改称。
  • 1952年 - 全日制農業科が徳島県三好農林高等学校(現在の徳島県立池田高等学校三好校)として独立し同校へ箸蔵分校昼間分教室を移管。
  • 1956年 - 徳島県立池田高等学校と改称。
  • 1958年 - 三名分校を廃止。
  • 1960年 - 佐馬地分校を廃止。
  • 1963年 - 祖谷分校西祖谷教室を廃止。
  • 1971年 - 三好市医師会准看護学院と技能連携教育を行う。
  • 1999年 - 技能連携教育を廃止。
  • 2005年 - 祖谷分校を廃止。
  • 2017年 - 徳島県立辻高等学校と三好高等学校を統合(三好高校は再統合)。池田高等学校辻校・池田高等学校三好校と改称。

校歌

編集
  • 徳島県立池田高等学校校歌(作詞:合田公明、作曲:永井潔)[1]
JR四国阿波池田駅では2022年から池田高等学校校歌が列車接近メロディに採用されている[2]

部活動

編集
  • 文化部 - 書道、美術など
  • 体育部 - 硬式野球、ハンドボール、レスリング、剣道、弓道など

野球部

編集

蔦文也元監督が率いる池田高校野球部は、春夏の甲子園大会で優勝3回、準優勝を2回した。全部員11人だけで戦い抜き準優勝を果たした「さわやかイレブン」や、「やまびこ打線」と呼ばれたその豪快な攻撃野球で、一躍有名になった。

1992年夏(第74回)以降は20年以上甲子園出場から遠ざかったが、2006年の春の県大会では準優勝、同年の秋季高校野球大会では、同じく県大会で準優勝を果たし(優勝は池田高校のやまびこ打線時代のライバルであり、同じ公立高校で、蔦の母校でもある徳島商業)、四国大会出場を決めるなど復活の兆しを見せた。

蔦の教え子だった岡田康志監督のもと、2013年の秋季四国大会で準優勝し、2014年春(第86回)に27年ぶり8回目の出場を果たした(2回戦敗退)。

なお、2017年に統合した2校のうち、辻校は統合後も分校扱いとして本校とは別に野球部が存続し、各種大会に出場している。

さわやかイレブン

編集

1974年春(第46回)に出場した池田高校は、メンバーが11人という、どうにかゲームが出来る人数であった。

しかし大会では快進撃を続け、決勝戦で報徳学園に敗れたものの選抜準優勝を果たした。

やまびこ打線

編集

監督の蔦は「芯を外れていても腕力が強ければ飛距離が伸びる」という、金属製バットの特性を生かすために、ウエイトトレーニングでひたすら部員の上半身を鍛え上げた。

こうして、緻密なプレーはせずにとにかく打ちまくるという強打の「やまびこ打線」を生み出した。1982年夏(第64回)では畠山準水野雄仁を擁し、チーム6戦85安打という当時の大会新記録を見事に打ち立てた。特にラストバッターの山口博史は2回戦・3回戦と2試合連続で本塁打を放ち「恐怖の9番打者」と恐れられ、切れ目のない打線の象徴となった。

準々決勝の早稲田実業戦では、のちにプロでも活躍したエース荒木大輔石井丈裕の両投手から、大量14点を奪い圧勝。更に決勝戦では「コツコツ点を取って守り切る」という従来の甲子園戦法の代表のような広島商業[3]相手に初回から猛打で圧倒し、12-2で勝利した。

金属バットは、打力を全面に押し出した方が有利といち早く気付き、徹底して実践した蔦元監督の先見の明は、その後の高校野球に大きな影響を与えた。帝京高校の前田三夫監督や、智弁和歌山高校の高嶋仁監督などが以後、この蔦元監督の池田野球に大きな影響を受けている。

KKコンビとの対決

編集

池田高校は1983年春(第55回)でも優勝し、同年夏(第65回)では史上初の「夏春夏3連覇」を達成するかが注目されていた。その準決勝で、この当時まだ1年生でノーマークだった桑田真澄清原和博の「KKコンビ」を擁するPL学園と顔を合わせた。相手ピッチャー・桑田の活躍で思い通りのバッティングが出来ず0-7の完封負けを喫した。

また、この試合でのPL学園は、池田の「やまびこ打線」のお株を奪うかのように、7番以降の下位打者3人(うち1人は8番桑田)がそれぞれ一発を放ったのだった。なおPL学園は、この夏の甲子園(第65回大会)の優勝校となった。

甲子園での成績

編集

全国高等学校野球選手権大会 (徳島県勢)及び選抜高等学校野球大会 (徳島県勢)を参照。

その他の部活動

編集

著名な出身者

編集

周辺環境

編集

旧・池田町の中心部に池田高校が位置している。池田町は周囲を急峻な四国山地讃岐山脈に囲まれた山間部の町である。阿波池田駅からは徒歩で約10分。付近には吉野川池田ダム湖)が流れている。また敷地の横を国道32号192号)とその旧道が走っている。

脚注

編集
  1. ^ 校歌 - 池田高等学校
  2. ^ 徳島県立池田高等学校校歌が阿波池田駅の列車接近メロディーに! 2023年3月24日閲覧。
  3. ^ 白川進 『俺たちの蔦野球-子供たちはついてきた-』 サンケイ出版 1983年、p219

関連項目

編集

外部リンク

編集