しずてつジャストライン藤枝営業所
しずてつジャストライン藤枝営業所(しずてつじゃすとらいんふじえだえいぎょうしょ)は、かつて静岡県藤枝市に存在したしずてつジャストライン株式会社の事業所である。ペットマークは象であった。2006年(平成18年)に焼津営業所と共に岡部営業所に移転統合され廃止となった。
所在地
編集志太郡藤枝町の中心市街地の東側に位置し、東海道と田中城下、焼津への結節点であった。また、藤枝駅前(藤枝市前島2842 現在の静岡銀行藤枝駅前支店付近)にも営業所事務所(藤枝営業所藤枝駅前売札所)と観光案内所を併設していた。[1][2]
静岡鉄道駿遠線の廃止後に大手駅が所在した場所に移転した。なお、営業所の移転後も大手交差点の拡幅工事が行われる1980年頃まで藤枝大手売札所(藤枝市市部614)が存続していた。[3]営業所廃止後は静岡銀行藤枝支店と戸田書店藤枝東支店となった。
概説
編集藤相鉄道の乗合自動車事業を源流とし、藤相鉄道と静岡電気鉄道の共同出資によって設立された駿遠自動車(のちに静岡乗合自動車)藤枝営業所、戦時統合によって誕生した静岡鉄道の藤枝営業所を経て、2002年(平成14年)にバス事業の分社化によって誕生した営業所である。藤相鉄道が志太地域で展開していた路線に加え、戦前に静岡電気鉄道が計画した静岡鉄道の基幹路線である「国道本線」と、同線を区間分離して誕生した「中部国道線」を担う営業所であった。
終戦から1950年代にかけては、静岡鉄道自動車部藤枝営業所の管轄下に藤枝営業区、焼津営業区、相良営業区、遅れて1957年頃に島田営業区が開設されたが、1958年に機構改正により各営業区は営業所となった。
1970年代までは藤枝営業所のあった藤枝大手が藤枝市内のバス路線における中心ターミナル(ハブターミナル)であったため、管内のほとんどの路線が藤枝大手を起終点としていた。1980年代に入ると東海道本線の藤枝駅前にもバスターミナルが整備され「瀬戸ノ谷線」や「葉梨線」といった北部山間路線が藤枝大手と藤枝駅前の双方を発着する一方、藤枝駅南部の路線も入出庫便を除き藤枝駅前を発着するようになり、徐々に中心ターミナルが藤枝大手から藤枝駅前に遷移していった。
1980年代中盤には国鉄分割民営化に前後して東海道線の島田 - 興津間に高頻度平行ダイヤが導入され、六合、西焼津に新駅が開業したことで藤枝 - 静岡間のバス利用がJR東海道線に移行したことに加え、1980年代後半から2000年代にかけて藤枝駅周辺の再開発事業が進行したことにより、藤枝駅へのフィーダー輸送が中心となっていった。
1990年代中盤には市立病院の移転に伴い、各路線から新病院への乗り入れが開始され、1990年代末期には市立病院への直通が考慮された大規模な路線再編が行われた。
2006年に営業所は焼津営業所と共に廃止となり、島田市を除く志太地域の路線が岡部営業所に集約された。
藤枝営業所車庫以外に、峠(瀬戸ノ谷線)、つつじ平団地(藤枝忠兵衛線)、吉永下河原(藤枝吉永線)などに夜間滞泊があったが、路線の縮小や自主運行バスへの移管等により、岡部営業所移管後の2010年代にはいずれも廃止されている。
沿革
編集- 1911年(明治44年)11月15日 - 藤相鉄道株式会社が設立された。
- 1913年(大正2年)11月16日 - 藤相鉄道の大手 - 藤枝新(後の新藤枝)間が開業した。
- 1924年(大正13年)12月4日 - 藤相鉄道が藤枝自動車商会の買収により乗合自動車事業に参入し、大手 - 藤枝駅間、上伝馬 - 中山間の免許を承継した。
- 1925年(大正14年)8月 - 藤相鉄道が地頭方自動車商会、1928年(昭和3年)6月9日に輪栄舎(川崎輪栄社)、さらに1930年(昭和5年)6月19日に焼津自動車、同10月23日には勝間田自動車を買収し、当時の志太・榛原郡下の主要路線の営業権を手中に収めた。[4]
- 1929年(昭和4年)4月19日 - 静岡電気鉄道株式会社に自動車部が発足した。
- 1932年(昭和7年)静岡電気鉄道が将来の静岡 - 袋井間の直通運転を構想して12月に身興自動車株式会社(清水区興津)を買収し、電鉄自動車株式会社を設立。1933年(昭和8年)3月には藤枝 - 金谷間などに路線を持つ西駿自動車商会(現 藤枝市)、同4月には静岡市中町 - 岡部 間、中町 - 石部(現 静岡市駿河区)間の2路線を展開する待月自動車商会(本社 現静岡市葵区中町)、1934年(昭和9年)7月には焼津 - 藤枝間および藤枝 - 六合間に路線を有する志太中央自動車商会(現 島田市)を買収し、東海道筋に路線網を拡大していった。
- 1934年(昭和9年)10月 - 藤相鉄道が駿南自動車を買収し「藤枝駅・吉永線」の免許を承継した。12月1日改正の藤相鉄道の時刻表には、藤枝地区では藤枝駅 - 大手間、藤枝駅 - 相良 - 御前崎間、藤枝駅 - 勝間田 - 大沢原間、藤枝駅 - 吉永間、大手 - 中山 - 坂下・市ノ瀬間、焼津駅 - 藤枝(大手) - 岡部間の路線が記載されている。[5][6]
- 1935年(昭和10年)4月 - 用宗から浜当目を経由し焼津に至る県道のバス営業権の取得について争っていた静岡電気鉄道と藤相鉄道が、興銀の仲介によって双方の関連する地区の路線の営業権や設備を拠出しあうことで駿遠自動車株式会社(本社 志太郡青島町前島)を設立し、駿遠自動車藤枝営業所となった。[7]静岡電気鉄道が買収した待月自動車の本社が在った静岡市仲町(現 静岡市葵区中町)には駿遠自動車仲町営業所が置かれた。[8]
- 1936年(昭和11年)5月19日 - 藤相鉄道の駿河岡部 - 大手間が廃止され、駿遠自動車のバスに転換された。
- 1937年(昭和12年)
- 1939年(昭和14年)6月1日 - 同日改正の静岡乗合自動車の時刻表ならびに路線図・運賃表付の乗車券では、のちの「大長線」(島田駅 - 神座間)や、「中部国道本線」(金谷 - 藤枝 - 岡部 - 静岡)「用宗線」(静岡 - 大崩)などに加えて、「瀬戸ノ谷線」(藤枝大手 - 坂下・市ノ瀬間)、「朝比奈線」(焼津 - 岡部 - 小園)「大覚寺線」(焼津 - 子持坂)、「焼津藤枝線」(築地・大手経由)などの藤相鉄道からの路線も含めた路線網が記載されている。[11]
- 1943年(昭和18年)5月15日 - 静岡電気鉄道、静岡乗合自動車、藤相鉄道、中遠鉄道、静岡交通自動車の5社の戦時統合によって静岡鉄道が設立されるが、鉄道輸送の優先と資源物資の不足、空襲などにより乗合自動車事業は中断されていった。[12]
- 1945年(昭和20年)合併後の社内組織の整理の前に静岡市内に空襲が続き甚大な被害を受けたため、終戦後はまず静岡市内に車両を重点的に配置し、組織づくりから開始した。[13]
- 1946年(昭和21年)銀行支援によって軍用車の払い下げも含め車両の増強を行い翌1947年に静岡市内線を復旧。さらに翌年には増資を行い市外の路線の復興のために組織を整備した。旧藤相鉄道の路線網を管轄する区域には藤枝営業所が置かれ、藤枝営業区、焼津営業区、相良営業区、遅れて1957年頃に島田営業区が開設された。[13][注 1]
- 1948年(昭和23年)12月1日 - 県内業界に先駆けて60人乗り大型ディーゼル車8両を購入し内6両をもって島田 - 興津間の国道直通運転を開始した。[14][15][16][17]
- 1949年(昭和24年)11月 - 金谷 - 興津間の急行運転を開始した。[18]
- 1958年(昭和33年)6月1日 - 自動車現業の機構改正により藤枝営業所、藤枝営業区が藤枝営業所となり、焼津、島田、相良の各営業区も営業所となった。[19][20][21][22][注 2]
- 1964年(昭和39年)
- 1970年(昭和45年)7月31日 - 新藤枝駅 - 大井川駅間の運行を最後に静岡鉄道駿遠線が全線廃止となり、翌8月1日から同区間を含む全線が路線バスによる運行となった。代行バス「駿遠線」は相良営業所との共管で、藤枝営業所は新藤枝 - 大井川間の区間便を担当した。
- 1973年(昭和48年)10月 - 県営藤岡団地に隣接して静鉄不動産が静鉄藤岡団地(藤岡五丁目304区画)の分譲を開始し、[25]藤枝大手北部の宅地開発が進展した。
- 1975年(昭和50年)
- 1978年(昭和53年)- 大井川町上泉地区につつじ平団地(戸建て320戸、雇用促進住宅80戸)が造成され、バス反転地と留置場が整備され「藤枝忠兵衛線」が乗り入れを開始した。また、大井川町吉永地区には吉永下河原停留所とバス反転地・留置場が整備され「藤枝吉永線」が乗り入れを開始すると共に、宅地化の進む藤枝市高柳地区を経由するようになった。[27]
- 1980年代初頭 時期不詳 - 藤枝大手交差点付近の拡幅工事に伴い交差点のバス待機所が廃止され「葉梨線」の五十海 - 押切橋間に五十海北停留所が設置された。以降は焼津駅を起終点とする路線が藤枝大手(または藤枝営業所)から五十海北まで延伸した。
- 1980年(昭和55年)4月15日 - 藤枝駅北口から新藤枝駅跡地にかけて藤枝駅前バスターミナルが整備され、翌1981年(昭和56年)12月には藤枝駅前北口広場が完成した。これに伴い藤枝駅前売札所が新藤枝駅跡地側のターミナル内に移転した。また、藤枝大手と藤枝市南部の高洲、大洲地区や大井川町を結んでいた「藤枝忠兵衛線」や「藤枝吉永線」が朝晩や藤枝営業所への入出庫便を除いて藤枝駅を起終点とするようになる一方、藤枝大手を起終点としていた「葉梨線」や「瀬戸ノ谷線」に藤枝駅前を起終点とする系統の本数が増加し、以降は藤枝市の中心ターミナルが藤枝大手から藤枝駅前に遷移していった。
- 1981年(昭和56年)3月 - 藤枝市花倉に日本ビクター藤枝工場が開設され「葉梨線」に新系統が誕生すると共に「瀬戸ノ谷線」「大覚寺線」が同系統への乗り入れを開始した。
- 1983年(昭和58年)- 藤枝駅南地区土地区画整理事業が認可され、以降駅南側の開発が進行した。 [28]
- 1984年(昭和59年)1月 - 住宅・都市整備公団により造成された住宅公団藤枝団地(団地面積115ha・予定人口1万4千人)が駿河台として分譲を開始し「駿河台線」が開設された。[29]
- 1986年(昭和61年)- 藤枝市に対して「瀬戸ノ谷線」「葉梨線」の一部区間廃止の申し入れがあり、1987年(昭和62年)4月から藤枝市の欠損補助により路線が維持された。
- 1995年(平成7年)4月 - 藤枝駅南口の藤枝市立志太病院が藤枝市立総合病院に名称変更し、駿河台に新築移転した。これに伴い「駿河台線」に藤枝市立総合病院停留所が開設され、志太病院入口停留所が田沼一丁目に名称変更された。また「大手市立病院線」が開設されると共に、複数の路線が新病院への乗り入れを開始した。
- 1996年(平成8年)3月現在の雑誌記事では島田営業所が藤枝営業所の支所となっている。[30]
- 2001年(平成13年)10月1日 - 藤枝市自主運行バス「藤枝駅平島線」「駅南循環線」の試験運行を開始した。
- 2002年(平成14年)10月1日 - バス事業の分社化により静岡鉄道自動車部藤枝営業所からしずてつジャストライン藤枝営業所として営業を開始した。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 焼津営業所と共に岡部営業所に移転統合し、藤枝営業所が廃止された。これに伴い「静鉄藤枝営業所」停留所の名称が「藤枝大手一丁目」に変更された。
所管していた路線
編集しずてつジャストライン藤枝営業所の発足時には次の路線を管轄していた。
中部国道線
編集- 概説
- 沿革
- 1960年代後半 時期不詳 - 長距離運行による遅延の解消のため、藤枝駅 - 新静岡系統のA系統と金谷駅 - 藤枝駅のB系統に分割され、藤枝営業所が「中部国道線A」を、島田営業所が「中部国道線B」を管轄した。区間Bの準急は廃止され、区間Aは日中は準急と普通の10分ごとの交互運行となった。また、宇都の谷 - 轟橋間の旧道経由の区間便が丸子営業所の管轄する「丸子線」に分離統合された。 [31]
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では、「中部国道線 準急」「急行静岡金谷線」「急行静岡浜松線」の停車停留所は次の通りであった。[32]
- 1974年(昭和49年)12月26日 - 遠州鉄道が掛川 - 静岡間から撤退し「急行静岡浜松線」(遠州鉄道の路線名は「国道静岡浜松線」)が廃止となった。[33]
- 1977年(昭和52年)2月 - 同月現在の路線図では「中部国道線A」の旧道の八幡橋経由が消滅し、準急と各駅停車1系統の2系統となっており、次の経路を運行していた。[34]
- 1985年(昭和60年)4月1日 - 同日改正の時刻表では、藤枝駅前 - 新静岡間の準急は朝7時代から上りは16時代、下りは18時代まで20分ヘッドで運行され、準急、各駅停車あわせて10分間隔の平行ダイヤであった。また、朝の横添西、または廻り沢口発の藤枝駅前行のほか、入出庫を兼ねた藤枝大手 - 新静岡、藤枝営業所 - 藤枝駅前の区間便が多数存在した。準急停車停留所は次の通り。[35]
- 1993年(平成5年)4月の時刻表では準急が朝のみ運行の上り4便、下り3便にまで減便されており、日中は各駅停車のみ12分間隔の平行ダイヤとなっている。また相川学園の通学路線であった「焼津広幡線」と藤枝市役所を経由する「さかなセンター線」の廃止に伴い、藤枝駅前 - 相川学園の通学便と市役所経由の2系統が新たに誕生している。[36]
- 1998年(平成10年)5月 - 事業者単独では維持できない不採算路線として市役所経由の廃止が静岡鉄道から藤枝市に申し入れられ、協議の結果、市役所経由は同年度を以って廃止することが決定された。なお、藤枝市役所を経由する区間は一旦廃止となるものの「瀬戸ノ谷線」の一部を市役所経由にすることで承継され、さらに「瀬戸ノ谷線」廃止後は「志太温泉線」へと承継された。[37]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 市役所経由が廃止され、次の2系統となった。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 藤枝営業所が廃止され、しずてつジャストライン岡部営業所に移管された。これに伴い入出庫を兼ねた藤枝大手・藤枝営業所発着便の多くが岡部営業所発着となった。
葉梨線
編集- 概説
- 藤枝大手から現在の県道215号に沿って藤枝市葉梨地区、さらに葉梨川上流域の大沢地区を結ぶ路線である。
- 1980年代には日本ビクター藤枝工場への支線が誕生し、焼津駅前 - 五十海北間を運行する「大覚寺線」直通便や、瀬戸谷地区の上滝沢地区から「瀬戸ノ谷線」直通便が乗り入れを開始した。また藤枝大手から「中部国道線」に乗入れ藤枝駅前を結ぶ系統も誕生した。
- 1980年代後半から山間地の通学手段の確保のために藤枝市による欠損補助が開始され、1990年代末期には通院手段の確保のために藤枝駅への系統の一部が「駿河台線」を経由して藤枝市立総合病院への乗り入れを開始したが利用者減少に歯止めがかからず、現在は平日のみの運行路線となっている。
- 上大沢系統の西方 - 上大沢間には狭隘区間が存在するため、ツーマン運行廃止後はバックカメラ・モニタ付きの中型バスでの運行であったが、1999年(平成11年)7月の豪雨による地すべり災害以降、同区間の運行は廃止されている。
- 沿革
- 1953年(昭和28年)9月現在の時刻表および路線図では、大手 - 西方間を1日6往復の運行であった。[38]
- 藤枝大手 - 中田 - 西方
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 運輸審議会に西方 - 上大沢間の免許が申請された。[39]
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では上大沢まで延伸している。[40]
- 藤枝大手 - 中田 - 西方 - 上大沢
- 1959年(昭和34年)10月現在の時刻表では、藤枝大手 - 上大沢間を1日14往復の運行であった。[20]
- 藤枝大手 - 押切橋 - 中田 - 西方小学校前 - 西方 - 上大沢
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では次の経路を運行していた。[34]
- 静鉄藤枝営業所 - 藤枝大手 - 押切橋 - 中田 - 葉梨中学校前 - 西方小学校前 - 西方 - 上大沢
- 1981年(昭和56年)3月 - 日本ビクター藤枝工場の開設により日本ビクターまで延伸した。
- 1985年(昭和60年)の時刻表では藤枝駅、藤枝営業所双方から2系統づつが存在した。「瀬戸ノ谷線」「大覚寺線」から「葉梨線」直通の日本ビクター系統も掲載されており、日本ビクター休業日には藤枝大手止まりとなる便と運休となる便が存在した。[41]
- 1986年(昭和61年)静岡鉄道から一部区間の廃止計画が藤枝市に伝達されたが、児童生徒、園児の通学通園のため、昭和62年度から欠損補助によって存続することが決定した。これに伴い上大沢系統は平日5往復、土日6往復から平日4往復、土曜5往復、日曜0に減便され、他は西方小学校止まりとなった。[41][42][43]
- 1993年(平成5年)の時刻表では「大覚寺線」の日本ビクター直通便は廃止され、「瀬戸ノ谷線」からの直通便のみとなっている。[44]
- 1998年(平成10年)5月25日 - 静岡鉄道から藤枝市に対して「藤枝市内におけるバス路線廃止・再編成計画について」の申し入れが行われ、藤枝市立総合病院への乗り入れ等「瀬戸ノ谷線」「志太温泉線」「駿河台線」と共に路線の再編が協議された。[45]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 1日6本の「駿河台線」への乗り入れが開始された。[46]
- 1999年(平成11年)7月 上大沢地区において豪雨により地すべり災害が発生し、西方 - 上大沢間が運休となったが、その後運行を再開することなく廃止された。
- 2006年(平成18年)4月1日 - しずてつジャストライン岡部営業所に移管された。
- 2009年(平成21年)4月1日 - 藤枝エミナース閉館に伴い藤枝市立総合病院 - 藤枝エミナース区間が廃止された。
- 2010年(平成22年)4月1日 - 藤枝市立総合病院 - 藤枝駅前 - 藤枝大手間が廃止された。
- 2011年(平成23年)3月27日 - 藤枝駅 - 藤枝大手間の運行が復活した。
- 2017年(平成29年)3月26日 - 土日祝日が運休となった。
- 1953年(昭和28年)9月現在の時刻表および路線図では、大手 - 西方間を1日6往復の運行であった。[38]
瀬戸ノ谷線
編集- 概説
- 藤枝大手、旧藤枝町市街地から現在の県道32号に沿って藤枝市北部の瀬戸谷地区、瀬戸川上流域を結ぶ路線であった。
- 1950年代後半から1960年代には地元の要望もあり市ノ瀬から蔵田地区、さらには県道220号線に沿って大久保地区まで延伸した。
- マイカーの普及によって1970年代以降は利用者減少が進み、ワンマン化によるコスト削減等により路線を維持してきたが、1987年度より瀬戸谷小学校から上流域について通学手段の確保のため、藤枝市からの欠損補助が開始された。また減便が進む一方で、藤枝大手方面から藤枝駅前方面への系統の比率が高まっていった。
- 1990年代末期には大規模な路線の再編が行われ、藤枝市立総合病院に延伸した。2003年(平成15年)には温泉施設「ゆらく」の開業に伴う増便も行われ、路線維持のための工夫も図られたが、利用者減少に歯止めはかからず岡部営業所に移管後の2009年(平成21年)に全線が廃止となり、藤枝市自主運行バスへと移行している。
- 沿革
- 1924年(大正13年)藤相鉄道が藤枝自動車商会を買収し、上伝馬 - 中山間の路線免許を承継した。
- 1926年(大正15年)3月 - 中山から市ノ瀬間、坂下に路線を延伸した。
- 1934年(昭和9年)藤相鉄道の時刻表では「中山線」として次の2系統を運行していた。[5][47]
- 大手 - 上傳馬 - 中山 - 市ノ瀬
- 大手 - 上傳馬 - 中山 - 坂下
- 1939年(昭和14年)6月1日改正の静岡乗合自動車の連絡乗車券に「中山線」が記載されている。
- 1953年(昭和28年)9月現在の静岡鉄道の時刻表および路線図では「瀬戸ノ谷線」として次の区間を運行しており、市ノ瀬系統が1日4往復、上滝沢系統が1日3往復の運行であった。[38]
- 藤枝大手 - 中山 - 市ノ瀬
- 藤枝大手 - 中山 - 上滝沢
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では市ノ瀬系統が蔵田まで延伸している。[40]
- 藤枝大手 - 上伝馬 - 矢崎橋 - 中山 - 市ノ瀬 - 蔵田
- 藤枝大手 - 上伝馬 - 矢崎橋 - 中山 - 上滝沢
- 1961年(昭和36年)1月27日 - 藤枝市議会議員、瀬戸谷地区各区長から静岡鉄道に蔵田行バスの増発の懇請書が提出された。[48]
- 1964年(昭和39年)- 大久保まで延伸した。[49]
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では藤枝大手・営業所発着に加えて藤枝駅前発着の系統が存在している。[34]
- 1981年(昭和56年)3月に日本ビクター藤枝工場が操業を開始し「葉梨線」を経由して日本ビクターへの乗り入れを開始した。また、同年には金吹橋が竣工し、志太温泉経由が矢崎橋経由から金吹橋経由に変更された。
- 1985年(昭和60年)4月の時刻表では 志太温泉経由の中里発藤枝駅前行が朝1便のみ、上滝沢 - 日本ビクター区間便が朝晩の1往復が設定されていた。[50]
- 1986年(昭和61年)瀬戸ノ谷小学校前 - 大久保、並びに中山 - 上滝沢区間の廃止計画が静岡鉄道から藤枝市に伝達されたが、児童生徒、園児の通学通園のため、昭和62年度より欠損補助方式によって存続することが決定した。[43]
- 1987年(昭和62年)の時刻表ではそれまで藤枝営業所発着のみだった蔵田系統に藤枝駅前発着の系統が誕生している一方で、藤枝駅前 - 上滝沢系統と中里発着の系統が廃止されている。平日の藤枝営業所発着便は藤枝営業所発が15便、藤枝営業所着が14便となっている。また「市ノ瀬上」停留所はびく石登山口に名称変更されている。[51]
- 1993年(平成5年)4月の時刻表では、平日の藤枝大手、藤枝営業所系統が1987年(昭和62年)には1日14.5往復あったものが5往復まで減便される一方で、藤枝駅系統は藤枝駅前着17便、藤枝駅前発14便にまで増加している。また志太温泉経由が廃止され、日本ビクター直通便も清水山入口まで区間縮小されている。[52]
- 1998年(平成10年)5月25日 - 静岡鉄道から藤枝市に対して「藤枝市内におけるバス路線廃止・再編成計画について」の申し入れが行われ、「葉梨線」「志太温泉線」「駿河台線」等と共に路線の再編や藤枝市立総合病院への乗り換え無しでの乗り入れが協議された。[45]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 減便の一方で、1日6本が藤枝市立総合病院への乗り入れを開始した。[46]
- 2003年(平成15年)4月1日 - 7月にオープンする「瀬戸谷温泉ゆらく」への誘客のため、平日2本、土日祝日6本の増発を行い、平日13本、土日祝日5本の瀬戸谷小学校止まりが中里まで延伸した。これに伴い、瀬戸谷温泉施設「ゆらく前」バス停留所には平日往路16本、復路18本、土日祝日は往路16本、復路13本が停車した。[53]また、1999年(平成11年)に廃止された「中部国道線A」の市役所経由が瀬戸ノ谷線に組み入れられ、4年ぶりに市役所経由が復活した。なお、藤相田沼街道を経由するルートは廃止され、かつての「代行バス大手線」の藤枝駅発青木経由と同ルートの経由であった。[54][55]
- 2006年(平成18年)4月1日 - しずてつジャストライン岡部営業所に移管された。
- 2007年(平成19年)3月末の運行を以って瀬戸ノ谷小学校 - 大久保間、中山 - 上滝沢間が廃止され、藤枝市自主運行バスへと移行した。これに伴い藤枝駅系統の藤枝駅 - 瀬戸ノ谷小学校区間のみとなった。
- 2009年(平成21年)3月末の運行を以って全線が廃止され、同地域の路線は藤枝市自主運行バスへと完全移行した。
志太温泉線
編集- 概説
- 沿革
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では、次の経路を運行していた。[40]
- 藤枝駅前 - 志太温泉 - 矢崎橋 - 藤枝大手
- 1973年(昭和48年)の時刻表では、1日4往復の運行であった。[56]
- 1974年(昭和49年)10月 - 静鉄不動産によって旭ヶ丘 275区画が分譲されるなど、茶町、音羽町地区の宅地開発が進行した。[25]
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では、次の経路を運行していた。[34]
- 藤枝駅前 - 志太温泉入口 - 瀬古 - 志太温泉 - 堀の内農協前 - 矢崎橋 - 清水山入口 - 茶町 - 千才 - 藤枝大手 - 静鉄藤枝営業所
- 1981年(昭和56年)金吹橋が完成し、矢崎橋経由から金吹橋経由にルート変更された。[57]
- 1985年(昭和60年)4月の時刻表では 次の経路を運行しており、平日は上り19本、下り17本が運行されていた。[58]
- 藤枝駅前 - 志太温泉入口 - 瀬古 - 志太温泉 - 金吹橋 - 清水山入口 - 茶町 - 千才 - 藤枝大手 - 静鉄藤枝営業所
- 1987年(昭和62年)4月1日 - JR発足時のダイヤ改正では、フリークエントサービスの試みとして藤枝駅前を起終点とする循環系統が誕生しており、平日は藤枝営業所系統が上り23本、下り19本に加えて、循環系統の瀬古まわりが11便、千才まわりが5便運行されていた。
- 1993年(平成5年)4月の時刻表では、平日は藤枝営業所系統が1日8往復、循環系統が瀬古まわりが1日8便、千才まわりが9便まで減便されている。[59]
- 1998年(平成10年)5月25日 - 静岡鉄道から藤枝市に対して「藤枝市内におけるバス路線廃止・再編成計画について」の申し入れが行われ、既に藤枝市からの欠損補助が行われていた「瀬戸ノ谷線」「葉梨線」等と共に路線の再編が協議された。[45]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 「瀬戸ノ谷線」「葉梨線」「大手市立病院線」と共に重複区間の運行が見直され、循環系統が廃止された。
- 藤枝駅前 - 志太温泉入口 - 瀬古 - 志太温泉 - 金吹橋 - 清水山入口 - 茶町 - 千才 - 藤枝大手 - 静鉄藤枝営業所
- 2006年(平成18年)4月1日 - 岡部営業所に移管された。
- 2009年(平成21年)4月1日 - 「瀬戸ノ谷線」の廃止を機に路線再編が行われ、藤枝市役所経由で循環系統が復活した。[60]
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では、次の経路を運行していた。[40]
駿河台線
編集- 概説
- 1984年(昭和59年)1月に藤枝駅北西部の高台に駿河台の分譲が開始され、これに伴い開設された路線である。[29]
- 1980年代後半から1990年代半ばにかけて宅地開発に加え、現在の静岡産業大学や藤枝市立総合病院等の施設が開設されたため通勤需要に加えて通学、通院需要が創出されていった。
- 1990年代末期から2000年代にかけては路線再編により他の路線から「駿河台線」直通で藤枝市立総合病院へ乗り入れる系統が誕生した。
- 開設当初は中型バスによる高頻度ダイヤを組んでいたが、現在は他の路線からの直通便も含めツーステップバスから大型ノンステップバスまで運用車両が多様化している。
- 岡部営業所に移管後の2009年(平成21年)には藤枝エミナース閉館に伴い藤枝市立総合病院 - 藤枝エミナース区間が廃止された。
- 沿革
- 1984年(昭和59年)4月現在の路線図では次の経路を運行していた。[57]
- 1988年(昭和63年)4月 - 駿河台4丁目に静岡学園短期大学、6丁目に静岡国民年金健康センター藤枝エミナースが開館し、両施設に停留所が開設された。
- 1993年(平成5年)4月の路線図では次の2系統が存在した。
- 1994年(平成6年)4月 - 静岡産業大学藤枝キャンパスが開学し、静岡学園短大停留所が静岡産業大学に変更された。
- 1995年(平成7年)4月1日 - 駿河台に藤枝市立総合病院が開設され、日中全便が藤枝市立総合病院への乗り入れを開始した。また「志太温泉線」の谷稲葉入口と「駿河台線」の保健センター停留所を藤枝駅前を経由せず直接結んだ「大手市立病院線」や、「藤枝吉永線」には「中部国道線B」の一部区間と静岡県の藤枝総合庁舎を経由して新たなルートから藤枝市立総合病院に乗入れる系統も開設された。[61]
- 1999年(平成11年)4月1日 - 「瀬戸ノ谷線」「葉梨線」が「駿河台線」を経由して藤枝市立総合病院に乗入れを開始した。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 岡部営業所に移管された。
- 2009年(平成21年)3月31 藤枝エミナース閉館に伴い藤枝市立総合病院 - 藤枝エミナース区間が廃止された。
大手市立病院線
編集- 概説
- 沿革
- 1995年(平成7年)4月1日 - 開設当初は1日15本が運行されていた。[61]
- 1998年(平成10年)「乗合バス不採算路線計画」における事業者単独で維持できない不採算路線として静岡鉄道から藤枝市に廃止の申し出が行われ、協議の結果、翌年度より藤枝市による欠損補助にて路線が維持される事となった。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 岡部営業所に移管された。
- 2007年(平成19年)4月13日 - 「中部国道線」や「志太温泉線」、藤枝市自主運行バス「藤岡市立病院線」などとの重複区間が多く非効率な路線となっていたため、しずてつジャストラインから静岡県生活交通確保対策協議会に退出意向の申し出が行われた。[63]
- 2008年(平成20年)4月1日 - 欠損補助方式から運行委託方式の自主運行バスに変更された。[64]
- 藤枝市立総合病院 - 千才 - 以降ループ区間(藤枝大手 - 藤枝大手一丁目 - 郡 - 平島中 - 平島団地 - 上当間 - 八幡橋 - 藤岡入口 - 藤枝大手)
- 2010年(平成22年)3月末をもって廃止され、4月からは藤枝市自主運行バス「藤枝駅平島線」と共に路線再編が行われ「城南平島線」に承継された。[60][65]
藤枝吉永線
編集- 概説
- 大正時代に駿南自動車が運行していた「藤枝・吉永線」を源流とし、開設時は藤枝駅と旧大井川町南部の吉永・飯淵地区を、現在の県道356号および県道227号を経由して結ぶ路線であった。
- 戦後は「志太循環線」の一区間として運行を再開し、1950年代後半に「飯淵線」として区間分離されたが、さらに「高洲飯淵線」と「忠兵衛飯淵線」に系統分離が行われた。
- 1970年代に入ると道路整備に呼応して、廃止された静岡鉄道駿遠線の代行路線や区間の重複する他の路線との再編の上ワンマン化され、藤枝駅と主に大洲地区、大井川町北西部を結ぶ「藤枝忠兵衛線」と、主に高洲地区、大井川町南部を結ぶ「藤枝吉永線」に再編された。さらに「藤枝吉永線」は「藤枝御前崎線」と区間の重複する田沼街道(県道藤枝大井川線)から、宅地開発の進む高柳地区、市道長楽寺高洲線を経由するようになった。
- 1990年代に志太病院が藤枝駅南口から駿河台に藤枝市立総合病院として新築移転した際には「中部国道線B」の一部区間を経由して新病院に延伸し、藤枝市高洲地区、旧大井川町から病院へのアクセス向上が図られた。
- 1990年代末期の大規模な路線再編の際には吉永下河原停留所が廃止され、再び飯淵を起終点とする路線となった。
- 沿革
- 1922年(大正11年)志太郡吉永村(現 焼津市吉永)に駿南自動車株式会社が設立された。
- 1924年(大正13年)
- 1928年(昭和3年)9月8日 - 駿南自動車が吉永 - 飯淵間に免許を取得し、藤枝駅 - 飯淵間に延伸した。
- 1934年(昭和9年)10月 - 藤相鉄道が駿南自動車を買収し「藤枝・吉永線」の免許を承継した。同年12月現在の藤相鉄道の時刻表では「藤枝驛吉永間乗合自動車」として1日に12往復が運行されており、うち吉永までの区間便が8往復あった。[5][67]
- 藤枝駅 - 土瑞橋 - 上新田 - 宗高 - 白金 - 吉永 - 飯淵
- 1953年(昭和28年)12月現在の静岡鉄道の時刻表では吉永地区を発着する路線は「吉永線」と「志太循環線」であった。[38]
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では「志太循環線」が廃止され、「吉永線」「飯淵線」「細島線」「大覚寺線」に区間整理されている。[40]
- 1959年(昭和34年)の時刻表では「飯淵線」が「高洲飯淵線」と「忠兵衛飯淵線」に分離されている。また「忠兵衛飯淵線」には1958年(昭和33年)8月に航空自衛隊静浜基地が開設されたことに伴い、静浜基地入口停留所が新設されている。[20]
- 1974年(昭和49年)10月現在の路線図では、「高洲飯淵線」の大井川駅前 - 飯淵間が廃止され「代行バス駿遠線」と統合され大井川駅跡の転回場を折り返す「藤枝大井川線」となっている。[68]
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では、「藤枝大井川線」の宗高新町 - 大井川駅区間は「藤枝御前崎線」に整理統合される一方、「忠兵衛飯淵線」の上新田 - 飯淵間が「藤枝大井川線」と統合され「藤枝吉永線」となっている。[34]
- 1978年(昭和53年)2月1日 -「藤枝御前崎線」と重複していた志太病院入口 - 宗高新町の区間が、田沼街道から高柳、市道長楽寺高洲線を経由するルートに変更され、吉永下河原まで延伸した。吉永下河原停留所には反転地とバス留置場が整備された。[27]
- 1984年(昭和59年)4月 - 当時の大井川町上新田に大井川高校が開校し、大井川高校停留所が新設された。田沼街道の上新田停留所は大井川高校入口として「藤枝御前崎線」のみが停車するようになった。[57]
- 1985年(昭和60年)の時刻表では次の2系統が存在し、静浜基地前経由は朝の下り、夕方上りの1往復のみとなっている。[69]
- 1993年(平成5年)4月の時刻表では静浜基地前経由は廃止されており、平日朝のみで中河原発藤枝駅前行の区間便が1本設定されている。
- 1995年(平成7年)4月 志太病院が藤枝市立総合病院に名称変更し、同市駿河台に新築移転したことに伴い、藤枝駅前から「中部国道線B」の瀬戸新屋 - 追分西区間から静岡県藤枝総合庁舎を経由して新病院に乗入れるルートが新たに開設された。1日の運行本数は17本であった。[61]
- 1998年(平成10年)5月25日 - 静岡鉄道から藤枝市に対して「藤枝市内におけるバス路線廃止・再編成計画について」の申し入れが行われ、吉永辻 - 吉永下河原間の廃止が協議された。
- 1999年(平成11年)4月 - 吉永辻 - 吉永下河原間を廃止し「吉永線」の吉永辻 - 飯淵間と縫合して飯淵が起終点となった。なお、廃止された吉永下河原反転地はその後隣接する食品工場の敷地となった。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 岡部営業所に移管された。
- 2009年(平成21年)4月1日 - 藤枝エミナース閉館に伴い「エミナース入口」停留所が南駿河台五丁目に名称変更され、南駿河台六丁目停留所が移転、新たに緑の丘停留所が設置された。
- 2010年(平成18年)4月1日 - 藤枝市立総合病院系統の藤枝駅前 - 藤枝総合庁舎間のルートが変更された。
藤枝忠兵衛線
編集- 概説
- 1970年代に「忠兵衛飯淵線」の上新田 - 吉永間を「藤枝吉永線」に整理し、区間短縮によって誕生した路線である。
- 藤枝駅から現在の県道356号、県道227号を経由して大洲地区中心部と大井川町上新田を結ぶ系統と、県道356号を直進して大井川左岸の工業地帯を結ぶ支線系統が存在した。
- 1970年代後半に大井川町上泉地区につつじ平団地として大規模な住宅造成が行われたため、上新田地区から上泉地区に経路が変更されつつじ平団地系統となった。
- 1980年代前半には支線系統を通じて島田営業所の所管する「細島線」が藤枝駅まで乗り入れ、科研製薬 - 藤枝駅間の便数が維持されていたものの、マイカー通勤の増加により1980年代後半には「細島線」共々減便されていった。
- 1990年代末期からは利用者減少により欠損補助による運行に移行し、岡部営業所移管後に委託方式の藤枝市自主運行バスに転換された。
- 沿革
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では「忠兵衛飯淵線」が上新田中まで区間短縮され、上新田辻 - 飯淵間は「藤枝吉永線」に整理統合されており、路線名も「藤枝忠兵衛線」に変更されている。[34]
- 1978年(昭和53年) 旧大井川町上泉地区につつじ平団地(戸建て320戸、雇用促進住宅80戸)が造成され、反転地とバス待機場が整備され、大洲小学校前系統がつつじ平団地行となった。
- 1982年(昭和57年)科研化学が科研製薬に社名変更されたこと受け、停留所名が変更された。
- 1984年(昭和59年)4月の路線図では次の2系統が確認できる。また、島田営業所の管轄する「細島線」が藤枝駅まで乗り入れている。[57]
- 藤枝忠兵衛線:
- 細島線:
- 1985年(昭和60年)の時刻表では平時1日30往復が運行されているが、つつじ平団地 - 藤枝営業所の直通便は藤枝営業所行5本、つつじ平団地行3本のみとなっている。[70]
- 1993年(平成5年)4月の時刻表では休校日運休で県立藤枝養護学校通学便が設定されていた。また、つつじ平団地 - 藤枝営業所の直通便は、平日が日中の藤枝営業所発つつじ平団地行1本のみ、日曜祝日が藤枝営業所行2本、藤枝営業所発3本となっている。
- 1998年(平成10年)静岡鉄道から「乗合バス不採算路線計画」における事業者単独で維持できない不採算路線として忠兵衛 - ネッスル工場区間の廃止意向が藤枝市に伝えられた。
- 1999年(平成11年)4月1日 - 藤枝市による欠損補助路線となり、「駿河台線」を経由して藤枝市立総合病院への乗り入れを開始した。[71]
- 2006年(平成18年)4月1日 - 岡部営業所に移管された。
- 2007年(平成19年)4月13日 - 静岡県生活交通確保対策協議会にしずてつジャストラインから退出意向の申し出が行われた。[63]
- 2008年(平成20年)4月1日 - 欠損補助から委託方式による自主運行バスに移行し、運行経路の見直しの上で藤枝市自主運行バス「藤枝善左衛門線」として運行を開始した。
休廃止路線
編集国道本線
編集- 概説
- 沿革
- 1924年(大正13年)- のちの待月自動車(昭和5年5月2日登記)が中町から本通り、手越、宇都ノ谷を経由し、岡部に至る路線を開設した。[72]
- 1928年(昭和3年)7月10日 - 静岡市議会で静清国道バスの免許出願が可決承認された。[73]
- 1929年(昭和4年)[74][75]
- 1930年(昭和5年)
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)
- 1936年(昭和11年)5月19日 - 藤相鉄道の駿河岡部 - 大手 間が廃止され、駿遠自動車によるバス輸送に転換された。
- 1937年(昭和12年)4月 - 静岡自動車の合併により駿遠自動車が静岡乗合自動車となった。
- 1938年(昭和13年)7月31日 - 静清国道バスに代燃車2台が導入され、以降全ての車両が代燃車に転換されて行った。[82]
- 1948年(昭和23年)12月1日 - 静岡鉄道の戦後第1号の中距離路線として島田 - 興津間に「国道本線」が開設された。[16][17]
- 1949年(昭和24年)11月 金谷 - 興津間の急行運転を開始した。急行停留所は下記のとおり。[18]
- 1951年(昭和26年)10月1日 - 袋井 - 静岡間の長距離直通運転を開始、併せて全線に亘って運転本数を増加した。[83]
- 1953年(昭和28年)9月現在の時刻表および路線図では袋井 - 興津間が一つの時刻表に纏められており多数の区間便が存在した。系統および主要停留所は次のとおり。なおこの当時は金谷始発の系統は藤枝大手からの折り返しであり、島田、金谷地区も藤枝営業所、藤枝営業区の担当であった。[38]
- 1955年(昭和30年)8月11日 - 国道1号新道(当時の新国道・現在の県道381号)の建設にあわせて広幡地区の新道経由の路線免許が申請された。[84]
- 1957年(昭和32年)4月 - 国道1号新道の島田工区が開通し、新国道沿いの現在の島田市若松町付近に島田営業区が開設された。
- 1958年(昭和33年)の時刻表では「国道本線」は次の3区間に分離されており、翌年の時刻表からは「西部国道本線」「中部国道本線」「東部国道本線」と表記されるようになった。[20][40]
中部国道本線
編集概説
- 「国道本線」は1958年(昭和33年)に袋井 - 金谷、金谷 - 静岡、静岡 - 興津に区間分離し、翌59年にはそれぞれ「西部国道本線」「中部国道本線」「東部国道本線」として時刻表に記載されるようになった。「中部国道本線」は藤枝営業所と島田営業所が共管した。
- 1960年代末期には「中部国道線」として藤枝駅 - 新静岡間を区間A、金谷駅 - 藤枝駅間を区間Bとして分離し、「中部国道線A」を藤枝営業所、「中部国道線B」を島田営業所が管轄した。
沿革
- 1959年(昭和34年)10月現在の時刻表には、「国道本線」の分離区間にそれぞれ「西部国道本線」「中部国道本線」「東部国道本線」として路線名が記載されている。また、国道1号新国道(現在の県道381号)開通により急行は新道経由とする一方、藤枝駅 - 水守間は旧東海道を各駅停車し水守 - 静岡間は急行同様に一部停留所のみに停車する準急が新たに誕生している。なお、新国道への移行期であったため、各駅停車の水守 - 轟橋間では旧国道(現・県道208号)を経由する系統が複数存在した。なお、同年11月28日には新宇都ノ谷トンネルが竣工し、[85]各系統ともに12月に増強予定と記載されており、当時の旺盛な需要を窺い知ることができる。[20][86]
- 急行停車停留所
- 準急(静岡駅前 - 藤枝駅前間 旧市内経由、水守 - 藤枝駅前間各停留所に停車)
- 各駅停車
- 水守 - 静岡間新道経由
- 八幡橋旧道他新道経由
- 横内旧道経由
- 全区間旧道経由
- 1962年(昭和37年)4月23日 - 前年の国道1号新道駿河大橋の開通に伴い、丸子旧道(細工所)と駿河大橋を経由する静岡駅前 - 二軒家の区間系統を「丸子線」として分離増強した。これに伴い「中部国道本線」は静岡駅前 - 宇都ノ谷の区間系統を除き、全て丸子新道(細工所入口)経由となった。
- 1963年(昭和38年)
- 1965年(昭和40年)10月1日 - 同日改正の時刻表では、宇都ノ谷峠(廻り沢入口 - 宇都ノ谷入口間)の運行は全て新宇都ノ谷トンネルを経由しており、通学系統として宇都ノ谷 - 静岡駅間に旧道経由の区間便が1日6往復運行されていた。[91]
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡に新バスターミナルが完成し、乗り入れを開始した。また5日後には新静岡センターが開業した。[87]
- 1969年(昭和44年)3月15日 - 東名高速道路の開通を機に遠州鉄道との相互乗り入れで「特急東名静岡浜松線」が開設されたことを受け、「急行静岡浜松線」が大幅に減便された。
- 1960年代後半 時期不詳 - 宇都の谷 - 二軒家 間の旧道経由が丸子営業所の管轄する「丸子線」に分離統合された。また、長距離運行による遅延解消のために新静岡 - 藤枝駅区間と藤枝駅 - 金谷駅区間に系統が分割された。
藤枝線、大手線
編集- 概説
- 沿革
- 1924年(大正13年)- 藤相鉄道が藤枝自動車商会を買収し、藤枝駅 - 大手間の路線免許を手に入れた。
- 1934年(昭和9年)- 藤相鉄道の時刻表では「藤枝線」として藤相鉄道大手線と併行して藤枝駅 - 大手間を運行していた。[5][47]
- 藤枝駅 - 大手
- 1964年(昭和39年)9月26日 - 静岡鉄道駿遠線の大手線(新藤枝 -大手間)が廃止となり、翌27日より「大手線代行バス」として藤枝駅 -大手間の運行が開始された。4つの系統が存在した。また朝7時 - 8時代の藤枝駅発大手行は新藤枝駅構内発で青木を経由せず田沼街道経由となっていた。[92][93]
- 1966年(昭和41年)6月1日 - ワンマン運行を開始した。[94]
- 1973年(昭和48年)8月 - 岡出山一丁目に藤枝市役所新庁舎が新築移転し本町停留所が市役所前に移転し市役所前となった。
- 1974年(昭和49年)の時刻表では「大手線」として平日12往復、日祝日5往復の運行であった。
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では次の経路を運行していた。[34]
- 藤枝駅前 - 公園前 - 農協前 - 東小入口 - 岡出山入口 - 市役所前 - 千才 - 藤枝大手 - 静鉄藤枝営業所
- 1980年(昭和55年)3月16日 - 平島団地まで延伸し「藤枝平島団地線」となった。[95]以降は藤枝駅前 - 静鉄藤枝営業所の区間便を運行する路線は「中部国道線」「志太温泉線」「藤枝平島団地線」の3路線となった。
藤枝平島団地線
編集- 主要停留所
- 概説
- 沿革
さかなセンター線
編集- 主要停留所
- 概説
飯淵線
編集- 概説
- 沿革
忠兵衛飯淵線
編集- 概説
- 沿革
- 1959年(昭和34年)の路線図および時刻表では次の経路を運行していた。[20]
- 1961年(昭和37年)10月1日 - 静浜基地前行・基地前経由が開設された。[98]
- 1963年(昭和38年)に科研化学(現・科研製薬)静岡工場と日本ビニロン静岡工場(現 ニチビ)、1967年(昭和42年)には日清紡藤枝事業所、さらには1972年(昭和47年)に持田製薬静岡工場が操業を開始するなど、忠兵衛から大井川左岸にかけて工場進出が相次ぎ、科研化学行の系統が誕生している。[99]
- 1973年(昭和48年)1月現在の時刻表では、 次の2系統が運行されており、朝7時代に平日のみ運行の静浜基地入口発藤枝行が2本、静浜基地経由が7時代下り1本、17時代上り1本の1日1往復が運行されていた。また同年ネッスル日本(現・ネスレ日本)静岡工場が進出し、科研化学前系統がネッスル前まで延伸した。[56]
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では上新田 - 飯淵間が「藤枝吉永線」に整理され、上新田中まで区間短縮された上で路線名も「藤枝忠兵衛線」となっている。[34]
高洲飯淵線
編集- 概説
- 沿革
代行バス駿遠線、駿遠線
編集- 概説
藤枝大井川線
編集- 概説
- 1970年(昭和45年)に全線廃止となった静岡鉄道駿遠線の代行バスの新藤枝 - 大井川駅区間便と「高洲飯淵線」の藤枝営業所 - 大井川駅前間と統合した路線であり、大井川駅跡地の転回場を折り返していた。
- 1975年(昭和50年)の時刻表では日曜祝日運休で、朝の通勤通学時間帯に藤枝営業所発大井川駅行、大井川駅発藤枝大手行の1往復、夕方藤枝営業所発大井川駅行からの折り返しで大井川駅 - 藤枝駅間を3往復し、翌朝の「藤枝御前崎線」大井川駅発藤枝駅行で藤枝市内に戻る運用であった。
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では、宗高新町 - 大井川区間が重複する「藤枝御前崎線」に整理統合される一方、「忠兵衛飯淵線」の上新田 - 吉永辻間が接続され「藤枝吉永線」となり廃止されている。
藤枝御前崎線
編集- 概説
住吉線、坂部線、住吉坂部循環線
編集- 概説
志太病院線
編集- 概説
- 沿革
高田線、藤枝玉取線
編集- 概説
- 沿革
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では「高田線」として次の経路を1日5往復運行していた。[40]
- 藤枝大手 - 中薮田中 - 高田 - 村良
- 1975年(昭和50年)の時刻表では、朝の玉取発藤枝大手行、17時代の藤枝大手発玉取行の1日往復のみの運行で「朝比奈線」の時刻表に藤枝大手経由として掲載されており焼津営業所に移管されている。
- 1977年(昭和52年)2月の路線図では「藤枝玉取線」として次の経路が記載されていた。[34]
- 静鉄藤枝営業所 - 藤枝大手 - 五十海 - 押切橋 - 中薮田中 - 高田 - 村良 - 玉取 - 小布杉
- 1984年(昭和59年)4月の路線図からは消滅している。(廃止時期不詳)[57]
- 1958年(昭和33年)12月現在の時刻表では「高田線」として次の経路を1日5往復運行していた。[40]
車両
編集1960年代
編集- 中扉のツーマン車が導入されたが、60年代後半にはワンマン化のため前扉の増設改造をする車両もあった。[104]
- 基本的にローカル路線にはリーフサス仕様の緑色とアイボリーの車両(三菱ふそうMR)、基幹路線である「中部国道本線」にはエアサス仕様のローズピンクにクリーム色の車両(三菱ふそうMR・MAR)が多数投入されたが、呉羽車体を架装したものが多数派であった。[105]
- 1969年(昭和44年)には車体のカラーも銀色に東急バスと同じ塗り分けで赤帯部分を青色とした通称「銀バス」に一新され、以降は以前に導入された車両も順次塗り替えが行われた。ローズピンクとアイボリーの貸切・急行カラーの内、当初から路線用として導入された車両(三菱ふそうMR・MAR)は銀バス塗装となった。[106][104]
1970年代
編集- 1970年(昭和45年)からは前扉直後に車掌台と車掌窓を装備した前後折戸のワンマン・ツーマン兼用車が導入されると共に、ローカル路線の狭隘区間でツーマン運用される車両を除き、以前の導入車も前扉を増設しワンマン機器を取り付ける改造が行われた。
- 1973年(昭和48年)まではワン・ツーマン兼用車が投入されたが、以降は転入車両を除きワンマン専用車(三菱ふそうMR450呉羽・富士重工)の導入となった。
- 山間路線には狭隘区間が存在したため、1970年代後半から1980年代初頭にかけてバックアイカメラ・モニタを装備した三菱ふそうの大型ショートや中・小型タイプの車両を投入することによりワンマン化を行った。
- メーカーは三菱ふそうの比率が圧倒的で一部いすゞBUが配置されていた。三菱ふそうは観光タイプを除いて呉羽車体と富士重工を架装し、いすゞも富士重工車体を架装していた。
- 1978年(昭和53年)からは「中部国道線」用に直結冷房車(三菱ふそう MP117)が投入されるようになった。車体は非冷房時代と同様に呉羽または富士重工であった。
1980年代
編集- 依然として大型路線バスの車台メーカーは三菱ふそうの導入が継続した。1980年度下期に「中部国道線」に投入された排出ガス規制K-代のMP118も車体は富士重工で引違窓仕様であったが、三菱ふそうの路線用シャシの富士重工製の車体を架装したものはこれが最後となった。[107]
- 1981年度に導入された2台は三菱車体で、路線シャシでありながら引違窓、観光マスク、ハイバックシート、エアサス仕様の中距離路線向けの冷房付ハイグレード車両(三菱ふそう MP518 )であった。
- 「中部国道線」には前折戸の観光バス(三菱ふそうB905N三菱車体、MS512N三菱車体)に折戸の後扉を増設し、路線仕様に改造した車両も投入されたが、前折戸のまま簡易方向幕とワンマン機器を装備した車両も登場し、藤枝地区のローカル路線で使用された。
- 1985年(昭和60年)に三菱ふそうエアロスターが初導入された際には車体は三菱名自製のエアロスターMであったが、翌年以降は呉羽・新呉羽のエアロスターKが導入された。
- 西部地区のローカル路線で余剰となった前扉の小型バス(三菱ふそう B623)が転入し、主に葉梨幼稚園のスクール運用で使用された。
- 「駿河台線」用に中型バス(三菱ふそう P-MK116J)が導入され、増備と共に狭隘区間のある山間路線でも運用されるようになった。また、静岡市内の冷房化によって余剰となった非冷房の大型ショート(三菱ふそう MM115)も「瀬戸ノ谷線」や「葉梨線」で運用された。[107]
1990年代
編集- 全般的に路線が縮小傾向にあったため、新車の投入が抑えられ、ハイグレード仕様の車両から標準的な二段サッシの車両の投入が基本となっていたが、1990年(平成2年)に投入された2台の三菱ふそうエアロスターKは引違窓で導入された。三菱ふそうエアロスターKに加え、いすゞの標準尺車(U-LV324L 富士重工7E車体)が投入されたが、1995年(平成7年)に導入された車両は短尺のV型8気筒エンジン搭載(KC-LV380L 富士重工7E車体)となった。
- 「中部国道線」用の新車投入の一方で、1970年代から80年代にかけて導入されたハイグレードタイプの冷房車が袋井や浜岡に転出し、1990年代前半に非冷房車を駆逐した。
- 非冷房の大型ショート(三菱ふそうMM115)の更新用に大型ショートの冷房車(三菱ふそうP-MM116H)が静岡市内から転入した。[107][108]
2000年代
編集- 利用者減少により新車投入が抑えされるなか、静岡市がオムニバスタウンの指定を受けノンステップバスの導入を進めたことで、余剰となったツーステップバスの三菱ふそうエアロスターや日野HTが静岡市内の営業所から転属した。また、中型ロングのノンステップバスの導入によって余剰となった中型バス(三菱ふそうMK、いすゞLR、日野RJ)や大型ショート(三菱ふそうMM)も静岡、清水地区から転属し、山間路線や自主運行バスの予備車として活躍した。
- 藤枝市の補助でのノンステップバス(いすゞエルガ)も5台導入された。この車両は静岡市内に導入された車両とは異なり、青色の部分が藤色に変更された独自の塗装(「藤枝カラー」と呼ばれる)となっている。[108]
脚注
編集注釈
編集- ^ 1947年に貸切バス事業を開始して以降、1958年の機構改正が行われる迄の観光パンフレットの問合せ先に各営業所、営業区が記載されている。
- ^ 1959年(昭和34年)の時刻表に附した問合せ先一覧には、藤枝営業所の事務所の電話番号が大手と藤枝駅前の双方にあり、同時期の日本平観光案内・定期観光バス案内の問合せ先一覧には藤枝大手営業所と藤枝駅前営業所の記述がある。また、郷土写真集の藤枝駅前広場の今昔を比較した1959年頃の写真の解説には、現在の静岡銀行藤枝駅支店付近に静岡鉄道の藤枝営業所が所在したという記述が残る。
- ^ 1939年(昭和14年)6月1日改正の静岡乗合自動車の時刻表ならびに路線図・運賃表付の乗車券には、藤相鉄道からの路線と共に、金谷 - 藤枝 - 大手 - 岡部 - 静岡間に路線網が記載されている。
出典
編集- ^ 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和37年版』日本統計協会、1962年、998頁。
- ^ 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和40年版』日本統計協会、1965年、1415頁。
- ^ a b 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和43年版』日本統計協会、1968年、1768頁。
- ^ 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、63頁。
- ^ a b c d 『鐡道自動車時刻表』藤相鐡道株式會社、1934年12月1日。
- ^ 阿形 昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線』静岡新聞社、2015年3月19日、113頁。ISBN 978-4-7838-9893-1。
- ^ a b c 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、57-58頁。
- ^ a b 『浅間神社本殿遷座祭写真帖 附 静岡名鑑』静岡新報社、1937年4月11日、101頁。
- ^ 『静岡銀行史』静岡銀行、1960年5月31日、105頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、46-47頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、48頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、58-63頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、65-70頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、97頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県 下巻 (戦後編)』静岡新聞社、1977年5月、34,39頁。
- ^ a b 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道株式会社、1989年4月、80頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、69頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、70頁。
- ^ 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道株式会社、1989年4月、162頁。
- ^ a b c d e f g h 『バス時刻表 1959.10.16現在 静鉄バス』静岡鉄道。
- ^ 『焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年5月15日、147頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、104頁。
- ^ 藤枝市史編纂委員会 編『藤枝市史 下巻』藤枝市、1966年2月5日、848頁。
- ^ 『静岡年鑑 1964年版』フジPRプロ、1964年6月25日、182頁。
- ^ a b c 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、286頁。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成12年9月定例会』藤枝市、2000年9月18日。
- ^ a b 大井川町史編纂委員会『大井川町史 下巻』大井川町、1992年3月31日、1060頁。
- ^ 『区画整理 27巻9月号』日本土地区画整理協会、1984年9月5日、43-46頁。
- ^ a b 藤枝市史編さん委員会『藤枝市史 通史編下 近世・近現代』藤枝市、2011年3月31日、837頁。
- ^ 『バスラマインターナショナル No.35(Vol.7 No.3)』ぽると出版、1996年4月25日、36, 90 - 91頁。
- ^ 岡部町史編纂委員会 編『岡部町史』志太郡岡部町、1970年8月1日、818-820頁。
- ^ 『バス路線図(全地区)静岡鉄道 47.11現在』静岡鉄道、1972年11月。
- ^ 遠州鉄道社史編纂委員会 編『遠州鉄道40年史』遠州鉄道株式会社、1984年12月1日、152頁。
- ^ a b c d e f g h i 『静岡鉄道全区間バス路線図 1977年2月現在』静岡鉄道。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.29 中部国道線 60.4.1』静岡鉄道、1985年。
- ^ a b 『静鉄バス時刻表 No.31 中部国道線 93.4.1現在』静岡鉄道、1993年。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成10年11月定例会』藤枝市、1998年12月7日。
- ^ a b c d e 『バス時刻表 昭和28年9月改正』静岡鉄道株式会社。
- ^ 『運輸審議会半年報 昭和30年1-6月』運輸大臣官房審理官室、1955年7月、153頁。
- ^ a b c d e f g h 『バス時刻表 附国鉄線 並 静鉄各鉄道線 1958.12.5改正』静岡鉄道、1958年。
- ^ a b 『静鉄バス時刻表 No.28 葉梨線 60.4.8現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.28 葉梨線 62.4.1現在』静岡鉄道、1987年。
- ^ a b 『藤枝市議会議事録 昭和61年12月定例会』藤枝市、1986年12月9日。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 葉梨線 93.4.1現在』静岡鉄道、1993年。
- ^ a b c 『藤枝市議会 会議録 平成10年3月定例会 03号』藤枝市、1998年6月16日。
- ^ a b 『藤枝市議会 会議録 平成12年9月定例会』藤枝市、2004年9月14日。
- ^ a b 阿形 昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線 -日本一の軽便鉄道-』静岡新聞社、2015年3月19日、111頁。
- ^ 藤枝市史編さん委員会『藤枝市史』藤枝市、2008年3月25日、688頁。
- ^ 『日本・石めぐり・シリーズ 第2輯』樹石社「中部地方篇Ⅰ」、1964年5月5日、61頁。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.28 瀬戸ノ谷線 60.4.8現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.28 瀬戸ノ谷線 62.4.1現在』静岡鉄道、1987年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 瀬戸ノ谷線 93.4.1現在』静岡鉄道、1993年。
- ^ 『藤枝市議会会議録 平成15年2月定例会』藤枝市議会、2003年3月3日。
- ^ 「藤枝「市役所前」から乗れます ー 4年ぶりにダイヤ改正でバス停復活」『静岡新聞』2003年4月2日、朝刊。
- ^ 『バスルートマップ 中部地区保存版』しずてつジャストライン、2002年。
- ^ a b c 『静鉄バス時刻表 1973.11.15現在』静岡鉄道、1973年。
- ^ a b c d e 『静岡鉄道全区間バス路線図 1984年4月現在』静岡鉄道、1984年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.28 志太温泉線 60.4.8現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 志太温泉線 93.4.1現在』静岡鉄道、1993年。
- ^ a b 『藤枝市議会 会議録 平成21年2月定例会』藤枝市、2009年3月9日。
- ^ a b c 『藤枝市議会会議録 平成7年9月定例会』藤枝市、1995年9月12日。
- ^ 『藤枝市議会定例会会議録 平成6年11月定例会』藤枝市、1994年12月19日。
- ^ a b 『藤枝市議会 会議録 平成19年6月定例会』藤枝市、2007年6月15日。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成19年11月定例会』藤枝市、2007年12月6日。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成21年9月定例会』藤枝市、2009年9月11日。
- ^ 大井川町史編纂委員会『大井川町史 下巻』大井川町、1992年3月31日、278頁。
- ^ 阿形 昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線 -日本一の軽便鉄道-』静岡新聞社、2015年3月19日、112頁。ISBN 978-4-7838-9893-1。
- ^ a b 『静岡鉄道 全区間 バス路線図 49.10現在』静岡鉄道、1974年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 藤枝吉永線 60.10.6現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 藤枝忠兵衛線 60.10.6現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成12年11月定例会』藤枝市、2000年12月4日。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、46頁。
- ^ a b c 村本 喜代作『交友七十年』山雨楼叢書刊行会、1962年1月31日、202-204頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、56-60頁。
- ^ a b c d 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、289頁。
- ^ a b c 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、921頁。
- ^ a b 鉄道省編纂 編『全国乗合自動車総覧 静岡県』鉄道公論社、10頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、46 - 48頁。
- ^ 清水市史編さん委員会 編『清水市史資料 現代』吉川弘文館、1972年3月30日、74-75頁。
- ^ 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1222頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(上巻 戦前編)』静岡新聞社、1976年11月19日、72頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(上巻 戦前編)』静岡新聞社、1976年11月19日、101-102頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道株式会社、2020年3月、85頁。
- ^ 『運輸審議会半年報 昭和30年7-12月』運輸大臣官房審理官室、1956年3月、78頁。
- ^ 安本博 編『静岡中心街誌 別冊』静岡中心街誌編集委員会、1974年、122頁。
- ^ 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1253頁。
- ^ a b 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道株式会社、1989年4月、163頁。
- ^ 『増補資料 静岡県榛原郡誌』静岡県榛原郡町村会、1973年11月3日、431 - 432頁。
- ^ 『冷暖房付急行バス 静岡と浜松を2時間で直結 路線開設チラシ』静岡鉄道、遠州鉄道、大井川鉄道、1963年。
- ^ 『<ポケット社史> 静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日。
- ^ 『静鉄 中部地区バス時刻表 40.10月1日改正』静岡鉄道、1965年10月1日。
- ^ 『駿遠線一部営業廃止並びに列車回数削減についてお知らせ』静岡鉄道株式会社、1964年9月20日。
- ^ 阿形 昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線 -日本一の軽便鉄道 -』静岡新聞社、2015年3月19日、128頁。ISBN 978-4-7838-9893-1。
- ^ 藤枝市総務部秘書広報課 編『広報ふじえだ 縮刷版 I』ぎょうせい、1990年3月、353頁。
- ^ a b 藤枝市総務部秘書広報課 編『広報ふじえだ 縮刷版 II』ぎょうせい、1991年6月、1182頁。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 藤枝平島団地線 60.4.8現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静鉄バス時刻表 No.30 さかなセンター線 60.10.16現在』静岡鉄道、1985年。
- ^ 『静苑 第八号』静岡鉄道、1961年10月31日、24頁。
- ^ 藤枝市史編さん委員会『図説 藤枝市史』藤枝市、2013年3月29日、150頁。
- ^ 『鉄道駿遠線(新藤枝~大井川間)営業廃止のお知らせ』静岡鉄道、1970年7月。
- ^ 阿形 昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線 -日本一の軽便鉄道-』静岡新聞社、2015年3月19日、132頁。ISBN 978-4-7838-9893-1。
- ^ a b 藤枝市総務部秘書広報課 編『広報ふじえだ 縮刷版 I』ぎょうせい、1990年3月、1050頁。
- ^ 『藤枝市議会 会議録 平成22年2月定例会』藤枝市、2010年3月3日。
- ^ a b 『発掘カラー写真 昭和40年代バス浪漫時代』JTBパブリッシング、2007年1月1日、76頁。ISBN 4-533-06593-7。
- ^ 『発掘カラー写真 昭和40年代バス浪漫時代』JTBパブリッシング、2007年1月1日、77頁。ISBN 4-533-06593-7。
- ^ 加藤 佳一『BJニューハンドブックスNo.39 しずてつジャストライン』BJエディターズ、2003年5月1日、26頁。ISBN 4-434-01904-X。
- ^ a b c 『バスラマインターナショナル No.35(Vol7 No.3)』ぽると出版、1996年4月25日、90-91頁。ISBN 4-938677-35-0。
- ^ a b 加藤 佳一『BJニューハンドブックスNo.39 しずてつジャストライン』BJエディターズ、2003年5月1日、32-68頁。ISBN 4-434-01904-X。