LOWA ET50形電車
ET50形は、東ドイツ(現:ドイツ)のヴェルダウ車両工場人民公社(VEB Waggonbau Werdau)で1950年から1953年まで製造された路面電車用車両。機関車・客貨車製造人民公社連合体(VVB LOWA)の生産計画に基づき導入された車両で、翌1954年から1956年までゴータ車両製造人民公社(VEB Waggonbau Gotha)で製造されたET54形と纏めてLOWA形(Lowa-Wagen)と呼ぶ場合もある[1][3][4]。
LOWA ET50形電車 LOWA EB50形電車 LOWA ET54形電車 LOWA EB54形電車 | |
---|---|
現役で使用されているナウムブルク市電のET50形(29) | |
基本情報 | |
製造所 |
ヴェルダウ車両工場人民公社(ET50/EB50形) ゴータ車両製造人民公社(ET54/EB54形) |
製造年 |
1950年-1953年(ET50/EB50形) 1954年-1956年(ET54/EB54形) |
製造数 |
691両(合計) 73両(ET50形) 169両(EB50形) 175両(ET54形) 274両(EB54形) |
主要諸元 | |
編成 | 単車(二軸車) |
軌間 | 925 mm、1,000 mm、1,435 mm、1,400 mm、1,450 mm、1,458 mm |
電気方式 |
直流600 V (架空電車線方式) |
最高速度 | 50 km/h |
車両定員 |
79人(着席22人)(ET50形、ET54形) 91人(着席22人)(EB50形、EB54形) |
車両重量 |
12.5 t(ET50形) 13.5 t(ET54/EB54形) 7.5 t(EB50形、EB54形) |
全長 | 10,500 mm |
全幅 | 2,180 mm |
車体高 |
2,990 mm(ET50/EB50形) 3,033 mm(ET54/EB54形) |
床面高さ | 690 mm |
車輪径 | 760 mm |
固定軸距 | 3,000 mm |
主電動機 | LEW/ヘミングスドルフ EM60/600 |
主電動機出力 | 60 kw |
搭載数 | 2基 |
備考 | 主要数値は[1][2][3][4]に基づく。 |
概要
編集導入までの経緯
編集第二次世界大戦終結後、ソビエト連邦が占領したドイツの地域では、資材の割り当てを受けた各地の工場で戦争の被害を受けた車両の部品を用いた戦災復旧車(Aufbauwagen、Afb)の製造が実施された。だが、各工場の生産性低下もあって生産数は限られており、導入は戦争で壊滅的な被害を受けた都市にのみに限られた。これら以外の都市へ向けた標準型路面電車の導入計画の始動は1948年の東ドイツ成立後となり、国営企業体の機関車・客貨車製造人民公社連合体(Vereinigung Volkseigener Betrieb des Lokomotiv und Waggonbau、VVB LOWA)の一員であり、当時最も生産力が高かったヴェルダウ車両工場人民公社(VEB Waggonbau Werdau)で製造が行われる事となった。そして1950年から導入が始まったのが、電動車のET50形と付随車のEB50形である[5][3][4]。
構造
編集主要構造は第二次世界大戦前から検討されていた路面電車車両の設計を基にしており、電動車に2基搭載された出力60 kwの電動機[注釈 1]から多段カムシャフトを介して動力が伝達される構造となっていた。標準軌(1,435 mm)向けの車両はディスクブレーキが備わっていた一方、狭軌は運転台での操作により直接制動がかかる手ブレーキが使用された。台車は電動車・付随車共に二軸台車を用いた[6][3]。
車体はライプツィヒ市電に導入された車両を除き両運転台車両で、外側に膨らんだ形状を持つ車体は側面の一部や天井部に木材を用いた半鋼製を採用した。だがそれにより製造から数年で車体中央下部の歪みが多数生じる事態となった。車内には22人分の座席が設置され、電動車の運転台はガラス張りの壁により客室と分けられていた。製造当初の乗降扉は手動式であった[4][7]。
1953年をもってヴェルダウ車両工場が自動車製造工場へ移行したため、1954年以降はゴータ車両製造人民公社(VEB Waggonbau Gotha)によって生産が続行された。その際に車体の歪み防止のため車体側面が全て鋼製に変更され、形式名もET54形(電動車)、EB54形(付随車)に改められている[8][4]。
-
外側に膨らんだ車体を有する(EB50形)
-
修繕中のEB50形
-
台車
形式
編集導入した都市によって、ET50形やET54形には以下のような独自の形式名が付けられる場合があった。
運用
編集1950年ベルリン市電、ハレ市電、ポツダム市電に導入された車両を皮切りに製造が始まり、翌1951年からは東ドイツの各都市に加え、ポーランド・ワルシャワ市電[注釈 2]への輸出も開始された。1954年からは前述の通り製造がゴータ車両製造に移行し、同年以降はソビエト連邦各地の路面電車への輸出も実施された。最終的に1956年までにET50/EB50形およびET54/EB54形合わせて691両の製造が行われ、以降の増備は設計を変更したゴータカーと呼ばれる車両群へ移行した[8][3]。
その後は各地の都市で乗降扉の自動化や非常ブレーキ(電磁吸着ブレーキ)の搭載などの近代化工事が施工され、ポツダム市電やドレスデン市電など車庫に併設された自社工場で改造が実施された車両も存在した。また一部都市では電動車の付随車化も行われた[3]。
1960年代以降はゴータカーに加えチェコスロバキア(現:チェコ)のČKDタトラが製造したタトラカーの導入が進んだ事で廃車が進んだが、大都市から中小都市への移籍も並行して実施され、1990年のドイツ再統一時点でもブランデンブルク市電、ロストック市電、ゲーラ市電など各都市での使用が行われていた。その後1993年までにこれらの車両は引退したが、2004年にナウムブルク市電に譲渡された元ハレ市電の車両(ET54形)が動態復元され、2019年現在も継続して定期運転に使用されている[2][3]。
発展形式
編集二軸車のET50/EB50形を基に、ヴェルダウ車両工場人民公社では三軸車やボギー車も製造されたが、双方とも試作のみに終わり、不具合や設計上の欠陥により使用も短期間に限られた[10]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 鹿島雅美 2007, p. 142-144.
- ^ a b “Fahrzeugpark Naumburg”. Ringbahn-Naumburg.de. 2019年9月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g Volker Vondran (1981) (ドイツ語). Die LOWA-Straßenbahnwagen. Verkehrsgeschichtliche Blätter. 6. pp. 147-152
- ^ a b c d e f “LOWA-WAGEN IN POTSDAM” (ドイツ語). www.tram2000.de. 2019年9月27日閲覧。
- ^ 鹿島雅美 2007, p. 143-144.
- ^ 鹿島雅美 2007, p. 142-143.
- ^ Henry Wille (1979) (ドイツ語). Die LOWA-Beiwagen des Typs B50/B51. Verkehrsgeschichtliche Blätter. 7. pp. 106-118
- ^ a b 鹿島雅美 2007, p. 144.
- ^ Wagenparkliste Leipziger Verkehrsbetriebe GmbH (LVB) - ウェイバックマシン(2013年2月26日アーカイブ分)
- ^ a b Sigurd Hilkenbach, Wolfgang Kramer (1999) (ドイツ語). Die Straßenbahn der Berliner Verkehrsbetriebe (BVG-Ost/BVB) 1949–1991 (2 ed.). Stuttgart: transpress. pp. 25–31. ISBN 3-613-71063-3
- ^ TABOR HISTORYCZNY - ウェイバックマシン(2006年10月7日アーカイブ分)
- ^ “BEL 50 (256)” (ドイツ語). Potsdam-Straba.de. 2019年9月27日閲覧。