- 当年のレースは、当初は甲子園競輪場での開催が決定していたが、当年夏頃に開催返上の申し入れがあり、立川競輪場がその代替地として引き受けることになった。
- 翌年のKEIRINグランプリ'89は中止となったが、実際にはこの大会でもあわや中止という危機に陥っており、中止は直前で回避されている(競輪五十年史より)。
- 当時、選手会が日本自転車振興会(以下日自振、現在のJKA)に対し、(1)競輪選手は4150人を適正数にされたい。(2)KPK以降の3層9班制の早期見直しを求める。(3)競輪学校への年間入学者を150人にされたい。…という要求を付き付けた。選手会側は、この要求が飲めなければグランプリでの誘導員斡旋を拒否する、という強硬姿勢に出たが、最終的にグランプリ開催当日の朝6時、日自振が(3)を飲むことで決着した。(3)については、「新陳代謝による活性化」を狙う日自振(当時の日自振としては、競輪学校入学者は年間200人と考えていた)と、「現役選手の大量リストラに繋がる」という選手会との対立にあった。
- 当レースの売上は、57億7382万9600円。目標の45億円を大幅に突破した。
- 当レース終了後の賞金獲得ランキング上位3名は、滝澤正光(1位)、井上茂徳(2位)、中野浩一(3位)となったが、いずれも年間獲得賞金額は1億円を突破。年間に3人も1億円突破者が出たのは競輪史上初のことであった。
- 出場選手のうち佐古雅俊はのち現役最年長選手となり、還暦を過ぎて63歳となった2023年6月まで現役を続けた。