1977年の日本ハムファイターズ
1977年の日本ハムファイターズ(1977ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1977年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
1977年の日本ハムファイターズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ5位 年間5位:58勝61敗11分 勝率.487 後期4位:27勝32敗6分 勝率.458 前期4位:31勝29敗5分 勝率.517[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
後楽園球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 大沢啓二 |
« 1976 1978 » |
このシーズンの日本ハムファイターズは、大沢啓二監督の2年目のシーズンである。
概要
編集3年ぶりに最下位を脱出したこともあり、大沢監督は「今年こそシーズンを勝ち越す」と宣言し、投手陣はダブル高橋(高橋一三・高橋直樹)に野村収、さらに広島からトレードで佐伯和司が加入した。前期は4位ながら勝ち越し、後期以降のAクラス入りが期待されたが後期に入ると負けが込むようになり、勝ち越しどころか借金3の5位で終了した。結局、高橋直が17勝(17敗)を挙げた以外は高橋一・佐伯がそれぞれ6勝、野村が5勝と期待外れに終わる。打撃陣は前年同様ウォルター・ウィリアムスとボビー・ミッチェルの外国人コンビが打線を引っ張り、特にミッチェルは最後までロッテのレロン・リーと本塁打王を争う活躍を見せた。他にも3割をマークした富田勝、正捕手・加藤俊夫のレギュラー陣、若手の岡持和彦が一定の成績をあげたが、それ以外の選手が低調に終わった。シーズン終了後、大沢監督は南海から柏原純一をトレードで獲得し、打線の強化を図ることになる。チームは前年と同じ順位ながらも借金を大きく減らし、1ケタにとどめたことが翌1978年のAクラス入りにつながった。この年3連覇の阪急には12勝12敗2分と健闘したが、4位の近鉄には8勝15敗3分と大きく負け越してしまい、勝率5割はならなかった。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 三 | 富田勝 |
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2 | 指 | 千藤三樹男 |
3 | 左 | ウイリアムス |
4 | 中 | ミッチェル |
5 | 右 | 上垣内誠 |
6 | 一 | 小田義人 |
7 | 捕 | 加藤俊夫 |
8 | 二 | 中原全敏 |
9 | 遊 | 菅野光夫 |
投手 | 高橋直樹 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 69 | 51 | 10 | .575 | 優勝 |
2位 | 南海ホークス | 63 | 55 | 12 | .534 | 5.0 |
3位 | ロッテオリオンズ | 60 | 57 | 13 | .513 | 7.5 |
4位 | 近鉄バファローズ | 59 | 61 | 10 | .492 | 10.0 |
5位 | 日本ハムファイターズ | 58 | 61 | 11 | .487 | 10.5 |
6位 | クラウンライターライオンズ | 49 | 73 | 8 | .402 | 21.0 |
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定 [1]
オールスターゲーム1977
編集→詳細は「1977年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 選出なし | |||
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監督推薦 | 高橋直樹 | 高橋一三 | 加藤俊夫 | ウィリアムス |
できごと
編集この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー[1] |
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受賞者なし |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
加藤俊夫 | 捕手 | 初受賞 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
加藤俊夫 | 捕手 | 初受賞 |
ドラフト
編集→詳細は「1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 石井邦彦 | 投手 | 大東文化大学 | 入団 |
2位 | 古屋英夫 | 内野手 | 亜細亜大学 | 入団 |
3位 | 山本桂 | 外野手 | 谷村工業高 | 入団 |
4位 | 川本智徳 | 投手 | 八代工業高 | 入団 |
5位 | 土居靖典 | 内野手 | 慶應義塾大学 | 拒否・日本鋼管入社 |
6位 | 田村藤夫 | 捕手 | 関東第一高 | 入団 |