1976年の太平洋クラブライオンズ
1976年の太平洋クラブライオンズでは、1976年の太平洋クラブライオンズの動向をまとめる。
1976年の太平洋クラブライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 年間成績:44勝76敗10分 勝率.367 後期6位:23勝40敗2分 勝率.365 前期6位:21勝36敗8分 勝率.368 | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
平和台野球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 中村長芳 |
経営母体 | 福岡野球 |
監督 | レオ・ドローチャー→鬼頭政一 |
« 1975 1977 » |
この年の太平洋クラブライオンズは、鬼頭政一監督の1年目のシーズンである。
概要
編集この年、太平洋の新監督としてレオ・ドローチャーの就任が発表され、招聘を前提に新ユニフォームにピンク色が採用されたが、急病により来日せず鬼頭ヘッドコーチが急遽監督に就任。それでも4月は7勝9敗4分と健闘したが、5月以降4連敗を2度喫するなど借金を重ね、前期は最下位。後期以降の巻き返しが期待されたが7月9日から8連敗を喫した。8月は10勝13敗3分と健闘するも、終盤は負けが込んで1972年以来4年ぶりの最下位に沈んだ。シーズン終了後、命名権が太平洋クラブからクラウンガスライターに移ったため、太平洋クラブライオンズを名乗ったのはこの年が最後となった。オフに基満男と中日の藤波行雄・竹田和史の交換トレードが成立するも、中日への移籍を早々に受託していた基とは対照的に、藤波が「ライオンズに行くくらいなら引退する」と頑なに拒否し、結局トレードが消滅するという事件もあった。代わりにクラウンへの移籍を不本意ながら受託していた竹田と松林茂との交換が成立した。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 二 | 基満男 |
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2 | 右 | アルー |
3 | 指 | 大田卓司 |
4 | 左 | 土井正博 |
5 | 一 | 竹之内雅史 |
6 | 中 | 白仁天 |
7 | 三 | 山村善則 |
8 | 遊 | 広瀬宰 |
9 | 捕 | 楠城徹 |
投手 | 東尾修 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 79 | 45 | 6 | .637 | 優勝 |
2位 | 南海ホークス | 71 | 56 | 3 | .559 | 9.5 |
3位 | ロッテオリオンズ | 63 | 56 | 11 | .529 | 13.5 |
4位 | 近鉄バファローズ | 57 | 66 | 7 | .463 | 21.5 |
5位 | 日本ハムファイターズ | 52 | 67 | 11 | .437 | 24.5 |
6位 | 太平洋クラブライオンズ | 44 | 76 | 10 | .367 | 33.0 |
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝
オールスターゲーム1976
編集→詳細は「1976年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
コーチ | ファン投票 | 監督推薦 |
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滝内弥瑞生 | 大田卓司 | 東尾修 土井正博 |
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
吉岡悟 | 首位打者 | .309 | 初受賞 |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
吉岡悟 | 二塁手 | 初受賞 |
大田卓司 | 指名打者 | 初受賞 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選出なし |
ドラフト
編集→詳細は「1976年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 立花義家 | 内野手 | 柳川商業高 | 入団 |
2位 | 徳山文宗 | 外野手 | 立命館大学 | 入団 |
3位 | 弓岡敬二郎 | 内野手 | 東洋大学附属姫路高 | 拒否・新日本製鐵広畑入社 |
4位 | 坂田松一 | 内野手 | 亜細亜大学 | 拒否・三協精機入社 |
5位 | 米沢馨 | 投手 | 三重・海星高 | 入団 |
6位 | 山村勝彦 | 外野手 | 大鉄高 | 入団 |
出典
編集- ^ “西武ライオンズ公式HP 背番号の歴史”. 埼玉西武ライオンズ. 2017年4月22日閲覧。