1974年の南海ホークス
1974年の南海ホークスでは、1974年の南海ホークスの動向をまとめる。
1974年の南海ホークス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ3位 年間3位:59勝55敗16分 勝率.518 後期2位:32勝27敗6分 勝率.542 前期4位:27勝28敗10分 勝率.491[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
大阪球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 川勝傳 |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 野村克也(選手兼任) |
« 1973 1975 » |
この年の南海ホークスは、野村克也選手兼任監督の5年目のシーズンである。
概要
編集前年川上哲治監督率いる巨人相手に日本シリーズに1勝4敗で敗退し巨人のV9を許したものの、野村監督は「今年も優勝する」と宣言。しかし、前期は投手陣の好投を打線が見殺しにする試合が目立ち4位で終了。後期はロッテに次ぐ2位に付けたものの、総合成績では59勝55敗16分の3位に転落し連覇はならなかった。前期65試合のうち、引き分けが10試合もあったことから接戦の弱さがモロに出る形となった。投手陣では移籍2年目の山内新一や江本孟紀がローテーションを守ったが、前年優勝の立役者となった西岡三四郎が右肩痛に襲われ勝ち星が半減したが防御率は3.06でリーグ1位となった。打撃陣は島野育夫・桜井輝秀の1・2番コンビは健在だったが、兼任監督の野村が12本塁打に終わった。この頃から江本や西岡などの主力選手が野村監督の愛人だった沙知代夫人(前年には長男・克則が生まれていた)の現場介入に反感を抱き、これが原因で他球団へ放出されることになる。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 中 | 島野育夫 |
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2 | 二 | 桜井輝秀 |
3 | 右 | 門田博光 |
4 | 捕 | 野村克也 |
5 | 一 | パーカー |
6 | 左 | 相羽欣厚 |
7 | 三 | 藤原満 |
8 | 遊 | 佐野嘉幸 |
9 | 投 | 江本孟紀 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | ロッテオリオンズ | 69 | 50 | 11 | .580 | 優勝 |
2位 | 阪急ブレーブス | 69 | 51 | 10 | .575 | 0.5 |
3位 | 南海ホークス | 59 | 55 | 16 | .518 | 7.5 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 59 | 64 | 7 | .480 | 12.0 |
5位 | 近鉄バファローズ | 56 | 66 | 8 | .459 | 14.5 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 49 | 75 | 6 | .395 | 22.5 |
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
オールスターゲーム1974
編集→詳細は「1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
監督 | 野村克也 | ||
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ファン投票 | 野村克也 | ||
監督推薦 | 江本孟紀 | 山内新一 | 桜井輝秀 |
- 取り消し線は出場辞退
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
佐藤道郎 | 最優秀防御率 | 1.91 | 4年ぶり2度目 |
最多セーブ投手 | 13S | (新設) |
ベストナイン | ||
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選出なし | ||
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
パーカー | 一塁手 | 初受賞 |
島野育夫 | 外野手 | 2年連続2度目 |
ドラフト
編集→詳細は「1974年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 長谷川勉 | 投手 | 日産自動車 | 入団 |
2位 | 新井鐘律 | 外野手 | 法政大学 | 入団 |
3位 | 浜名繁幸 | 投手 | 臼杵商業高 | 入団 |
4位 | 岡本圭右 | 投手 | 兵庫・三原高 | 入団 |
5位 | 米谷延夫 | 捕手 | 大昭和製紙 | 入団 |
6位 | 佐藤豊一 | 捕手 | 三重高 | 拒否・三菱自動車名古屋入社 |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “年度別成績 1974年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月22日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。