1951年の阪急ブレーブス
1951年の阪急ブレーブスでは、1951年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
1951年の阪急ブレーブス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ5位 | |
37勝51敗8分 勝率.420[1] | |
本拠地 | |
都市 | 兵庫県西宮市 |
球場 | 阪急西宮球場 |
球団組織 | |
オーナー | 小林一三 |
経営母体 | 京阪神急行電鉄 |
監督 | 浜崎真二 |
« 1950 1952 » |
概要
編集パ・リーグ1年目を負け越しながら4位とAクラス入りを果たしたチームだが、5月に首位の南海に11ゲーム離されて最下位に転落。6月以降は巻き返して南海・毎日・西鉄に次ぐ4位に入り、2年連続のAクラス入りなるかと思われた。しかし夏場に入るとチームは上がったり下がったりの連続で、最終的に優勝の南海に31ゲーム、2位西鉄に12.5ゲームも離されて2リーグ分裂後初のBクラスとなった。この年から浜崎監督が引退して監督専任となり、1953年まで指揮をとった。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 一 | 川合幸三 |
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2 | 中 | 古川清蔵 |
3 | 三 | 藤井道夫 |
4 | 右 | 東谷夏樹 |
5 | 左 | 矢部滋 |
6 | 捕 | 山下健 |
7 | 遊 | 植田武彦 |
8 | 投 | 天保義夫 |
9 | 二 | 明石晃一 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 東急 | 1.5 | 西鉄 | 3.0 | 毎日 | 9.0 | 毎日 | 13.0 | 毎日 | 14.5 | 西鉄 | 18.5 |
3位 | 西鉄 | 3.5 | 東急 | 6.0 | 西鉄 | 9.5 | 西鉄 | 14.5 | 西鉄 | 18.5 | 毎日 | 22.5 |
4位 | 近鉄 | 4.0 | 毎日 | 7.0 | 阪急 | 15.0 | 東急 | 17.0 | 阪急 | 23.5 | 大映 | 29.5 |
5位 | 毎日 | 4.5 | 近鉄 | 8.5 | 東急 | 16.0 | 大映 | 18.0 | 東急 | 24.5 | 阪急 | 31.0 |
6位 | 阪急 | 4.5 | 大映 | 9.5 | 大映 | 17.0 | 阪急 | 18.5 | 大映 | 24.5 | 東急 | 33.0 |
7位 | 大映 | 6.5 | 阪急 | 11.5 | 近鉄 | 17.5 | 近鉄 | 24.0 | 近鉄 | 31.0 | 近鉄 | 33.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 南海ホークス | 72 | 24 | 8 | .750 | 優勝 |
2位 | 西鉄ライオンズ | 53 | 42 | 10 | .558 | 18.5 |
3位 | 毎日オリオンズ | 54 | 51 | 5 | .514 | 22.5 |
4位 | 大映スターズ | 41 | 52 | 8 | .441 | 29.5 |
5位 | 阪急ブレーブス | 37 | 51 | 8 | .420 | 31.0 |
6位 | 東急フライヤーズ | 38 | 56 | 8 | .404 | 33.0 |
7位 | 近鉄パールス | 37 | 56 | 5 | .398 | 33.5 |
オールスターゲーム
編集→詳細は「1951年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
コーチ | 浜崎真二 |
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ファン投票 | 中谷順次 |
監督推薦 | 戸倉勝城 |
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
阿部八郎 | 最多奪三振 | 150個 | 初受賞 |
ベストナイン |
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選出なし |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “年度別成績 1951年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月24日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。