1951年の大洋ホエールズ
1951年の大洋ホエールズでは、1951年の大洋ホエールズの動向をまとめる。
1951年の大洋ホエールズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ6位 | |
40勝64敗4分 勝率.385[1] | |
本拠地 | |
都市 | 山口県下関市 |
球場 | 下関市営球場 |
球団組織 | |
オーナー | 中部謙吉 |
経営母体 | 大洋漁業 |
監督 |
中島治康(6月30日まで) 有馬義一(7月1日から) |
« 1950 1952 » |
この年の大洋ホエールズは、チーム創設2年目のシーズンである。
概要
編集前年、球団創設1年目ながら69勝68敗3分と勝ち越したチームは2年目こそAクラス入りが期待されたが、この年は開幕から雪辱に燃える巨人が快進撃。チームも4月は首位の巨人と3ゲーム差と健闘するが、5月以降はBクラスで定着して6月末に中島治康監督から有馬義一監督へ交代。チームは監督交代後も下位をさまよい、試合数の半減と7球団制(西日本が西鉄と合併のためセを離脱)への移行があったものの、勝ち星が大幅に減少。投手陣は最多被安打を記録したほか、防御率がリーグ最下位の4.84と振るわず、打撃陣も長打ブームの終焉で本塁打が激減し、安打数もリーグ5位に終わった。結局大洋ホエールズ2年目は40勝64敗4分の借金24に終わり、チームは1950年に松竹を優勝に導いた小西得郎を監督に招聘して立て直しを図ることになる。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 二 | 宮崎剛 |
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2 | 三 | 木村保久 |
3 | 一 | 大沢伸夫 |
4 | 右 | 藤井勇 |
5 | 捕 | 門前眞佐人 |
6 | 左 | 森雅功 |
7 | 遊 | 荒木茂 |
8 | 中 | 矢野純一 |
9 | 投 | 高野裕良 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 国鉄 | 0.0 | 松竹 | 1.5 | 名古屋 | 3.5 | 名古屋 | 11.0 | 名古屋 | 14.0 | 名古屋 | 18.0 |
3位 | 名古屋 | 2.5 | 大阪 | 2.0 | 松竹 | 7.5 | 松竹 | 14.5 | 松竹 | 19.0 | 大阪 | 20.5 |
4位 | 大洋 | 3.0 | 名古屋 | 4.5 | 大阪 | 9.0 | 大阪 | 15.0 | 大阪 | 19.5 | 松竹 | 27.0 |
5位 | 松竹 | 3.5 | 国鉄 | 大洋 | 12.5 | 大洋 | 18.5 | 国鉄 | 25.0 | 国鉄 | 31.5 | |
6位 | 広島 | 4.0 | 大洋 | 4.5 | 国鉄 | 13.5 | 国鉄 | 18.5 | 大洋 | 25.5 | 大洋 | 37.0 |
7位 | 大阪 | 4.5 | 広島 | 7.5 | 広島 | 17.0 | 広島 | 25.0 | 広島 | 33.5 | 広島 | 41.0 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 79 | 29 | 6 | .731 | 優勝 |
2位 | 名古屋ドラゴンズ | 62 | 48 | 3 | .564 | 18.0 |
3位 | 大阪タイガース | 61 | 52 | 3 | .540 | 20.5 |
4位 | 松竹ロビンス | 53 | 57 | 5 | .482 | 27.0 |
5位 | 国鉄スワローズ | 46 | 59 | 2 | .438 | 31.5 |
6位 | 大洋ホエールズ | 40 | 64 | 4 | .385 | 37.0 |
7位 | 広島カープ | 32 | 64 | 3 | .333 | 41.0 |
オールスターゲーム
編集→詳細は「1951年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 選出なし |
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監督推薦 | 高野裕良 |
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン |
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選出なし |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “年度別成績 1951年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月24日閲覧。
- ^ a b 18 達成記録一覧 Archived 2013年12月26日, at the Wayback Machine. セ・リーグ公式サイト
- ^ 宇佐美徹也 1993, p. 339.