龍湫周沢
1308-1388, 南北朝時代の臨済宗の僧。不動の像を能くし、妙沢不動と称して珍重される
龍湫 周沢(りゅうしゅう しゅうたく、延慶元年(1308年)- 嘉慶2年/元中5年9月9日(1388年10月9日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。甲斐国恵林寺の第10代住持。俗姓は武田氏。諱は妙沢。咄哉とも号する。
甲斐国の出身。臨済宗夢窓疎石派の僧で、夢窓の法系を継ぐ。延文元年(1356年)に青山慈永の後任として甲斐国恵林寺の住持となり(「龍湫周沢行状」『続群書類従』所載)、恵林寺に残される法語(「仏眼禅師語録」に含まれる「龍湫周沢語録」)に拠れば恵林寺の大檀那には「奥州太守」がおり、甲斐守護武田信武を指すと考えられている。
夢窓疎石が没した後は、兄弟子である春屋妙葩とともに夢窓派の中心的な僧となった。妙葩が室町幕府の管領の細川頼之と対立して丹後国に隠遁し、後任の恵林寺住持は絶海中津となる。その後も夢窓派の中心として活動し京都において建仁寺・南禅寺・天竜寺・臨川寺の住持を歴任した。細川頼之が失脚した後、一時春寧院に隠棲したが、その後南禅寺の住持として復帰している。
詩文・絵画においても活躍し、詩文集『随得集』や「慈聖院并寿寧院遺誡」(承天閣美術館蔵、重要文化財)など幾つも作品を残している。20年以上の間毎日不動明王を描いたと言われ、一般に「妙沢不動」と呼ばれる。図様は平安時代後期からの定型的な様式で、南禅寺や甲府一蓮寺などに現存する。また京都国立博物館には、周沢が無準師範の衣を譲られる夢を見た翌日、まさしくその衣を贈られた慶事から「応夢衣」とばれた周沢所用の「牡丹唐草文印金袈裟(応夢衣)」(重要文化財、e国宝に画像と解説)が現存している[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 山家浩樹「臨済宗の発展」『山梨県史』通史編2中世、第十一章第一節