黒木 親慶(くろき ちかのり[1]1883年(明治16年)2月1日 - 1934年(昭和9年)3月14日[2]は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐

黒木くろき 親慶ちかのり
生誕 1883年(明治16年)2月1日
日本の旗 日本宮崎県
死没 (1934-03-14) 1934年3月14日(51歳没)
日本の旗 日本東京府
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1904年-1920年
最終階級 陸軍少佐
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来歴

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宮崎県西諸県郡飯野村(後の飯野町、現・えびの市)に大河平親貞の長男として生まれ、黒木実幸の養子となる。[3]

熊本陸軍幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)11月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同期生に、岡村寧次小畑敏四郎永田鉄山らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第46連隊付となる。1905年(明治38年)5月から12月まで、日露戦争に出征。1912年(大正元年)、陸軍大学校(24期)を卒業した。[4]

陸軍士官学校教官、参謀本部部員、ハルビン駐在を経て、1916年(大正5年)、第一次世界対戦下のロシア軍に従軍。1918年(大正7年)、6月参謀本部付、9月第3師団司令部付。ザバイカルコサックグリゴリー・セミョーノフの支援にあたる。[4][5]

1919年(大正8年)9月、少佐進級。1920年(大正9年)5月、陸軍兵器本廠付。同年7月、依頼予備役編入、9月、依頼退役。

人物・交友関係

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  • 岡村寧次とは、中央幼年学校以来の友人であった。[6]
  • 退役後も中堅幕僚層と関係を持ち、二葉会一夕会の会員であった。[5][7]
  • 荒木貞夫と密接な関わりを持ち、特に一夕会では荒木との交流を担ったとされる。

栄典

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位階

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勲章等

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登場する作品

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  • 高橋治『派兵』全4部 朝日新聞社 1973-77
  • 安彦良和 『乾と巽 -ザバイカル戦記』2019〜

脚注

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出典

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  1. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年3月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 「故陸軍歩兵少佐黒木親慶位階追陞ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A11114229200、叙位裁可書・昭和九年・叙位巻七(国立公文書館)
  3. ^ 『えびの市史 下巻』宮崎県えびの市、1998年3月25日、125頁。 
  4. ^ a b 秦, 郁彦『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年、61頁。 
  5. ^ a b 刈田, 徹『昭和初期政治・外交史研究』人間の科学社、1989年、29頁。 
  6. ^ 船木, 繁『支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将』河出書房新社、1984年、18-19頁。 
  7. ^ 高橋治 (1980年2月). “黒木親慶のこと”. 歴史読本 25(2)[(312)]. 

参考文献

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  • 瀬尾栄太郎編著 『黒木親慶君追悼伝記』昭和12年
  • 芦田均『革命前夜のロシア』文藝春秋新社 昭和25年
  • 末松太平『完本-私の昭和史-二・二六事件異聞 』2023年
  • 大蔵栄一『二・二六事件への挽歌―最後の青年将校 』1971年

関連項目

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