麻田郡
麻田郡(マジョンぐん、までんぐん、朝鮮語: 마전군)は、かつて大韓民国京畿道にあった郡であり、後の漣川郡嵋山面
由来
編集本来の名称は、
歴史
編集- 本来は、百済の領域であったが、高句麗の
麻田浅 県(마전천현)になった。イサン面トンイ里の漣川堂浦城 (연천당포성)は、考古学調査によって、この城は高句麗によって築造されたと考えられている[3]。 - 757年(新羅景徳王16年):名称を
臨湍 県(임단현)と改め、牛峰 郡(우봉군:後の黄海北道金川郡峴内里(현내리)、かつての牛峰面)の一部とした。 - 高麗時代に入り、
麻田 と呼ばれ始めた。 - 1018年(高麗顕宗9年):長湍郡(장단군)の管轄下になった。
- 1062年(高麗文宗16年):開城府直属になった後、県監が置かれた。
- 1414年(朝鮮太宗14年):漣川県と合わせて
麻漣 県(마련현)になり、後に再び分割された。 - 1452年(朝鮮文宗2年):高麗の七王(高麗太祖・恵宗・定宗・光宗・景宗・成宗・穆宗・顕宗)と、鄭夢周など15人の高麗時代の功臣を祀る祠堂である崇義殿が建立され、郡に昇格して麻田郡になった。
- 1906年9月24日 - 長湍郡長東面・江東面および積城郡河北面を編入[4]。それぞれ長新面・江新面[5]・河新面となる。
- 1914年4月1日:漣川郡に編入されて廃止。
→1914年以降の歴史と現状については「漣川郡」を参照