鹿野澄
鹿野 澄(かの きよし、明治18年(1885年)8月23日 - 昭和34年(1959年)1月11日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍主計中将。
経歴
編集米子中学(現在の米子東高校)を経て明治41年(1908年)5月、陸軍経理学校(2期)を優等で卒業。
昭和6年(1931年)8月、陸軍一等主計正(大佐相当官)に昇進し陸軍造兵廠会計部長に就任。昭和9年(1934年)6月、第1師団経理部長となる。千住製絨所長心得を経て、昭和11年(1936年)8月、陸軍主計監(少将相当官)に進級し千住製絨所長に就任。同年12月、糧秣本廠長に転じ、経理学校付を経て、昭和14年(1939年)8月、被服本廠長に就任。同年10月、陸軍主計中将に進んだ。昭和15年(1940年)8月に待命、そして予備役編入となった。
退役後、麻の統制会社の社長、浜口繊維産業取締役、日東紡績顧問、新東海フェルト(株)顧問、フェルト産業(株)顧問、江口汽船(株)取締役、吾妻ゴム産業(株)取締役等歴任。
人物像
編集中学校時代三好英之(元北海道開発庁長官)と同級だった。三好少年の面影を、のちに鹿野澄が回顧しているが、「君は名門にして富豪の子、私は貧乏士族の子、家庭も環境も大いに違っていたが、少年にはそんな差別はない。お互いに敬愛しつつよく遊んだ。当時の君は温厚、誠実で、白皙の美少年だった。別に糞(くそ)勉強もしなければ、特に目立った存在でもなかった」といっている[4]。
脚注
編集- ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』35頁には「本来米子の人らしく、野坂寛治によると、米子東町の松浦医院のところが、“主計中将鹿野澄氏の生家であった”ということであるが、これには一、二違った意見もあるようだ。鹿野家のあとは現在米子には誰もいないらしく、電話帳によって一軒残っている鹿野家に電話をしてみたが、“うちとは関係ありません”という返事がはねかえってきた」とある
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
- ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』48頁
- ^ a b 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 カ…326頁
参考文献
編集- 『新日本人物大観』(鳥取県版)人事調査通信社、1958年。 カ…326頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年、34-37頁。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。