鹿瀬駅
鹿瀬駅(かのせえき)は、新潟県東蒲原郡阿賀町
鹿瀬駅 | |
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駅舎(2023年4月) | |
かのせ Kanose | |
◄日出谷 (5.2 km) (3.4 km) 津川► | |
所在地 | 新潟県東蒲原郡阿賀町向鹿瀬858[1] |
所属事業者 | 東日本旅客鉄道(JR東日本) |
所属路線 | ■磐越西線 |
キロ程 | 133.6 km(郡山起点) |
電報略号 | カセ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 1面1線[2] |
開業年月日 | 1914年(大正3年)11月1日[1][3][4] |
備考 | 無人駅[2] |
旧・鹿瀬町中心地にあり、以前は貨物取扱もあった。ホーム有効長関係で快速「SLばんえつ物語」も通過となる。当駅 - 津川駅間には地滑り地帯が存在するため、当該区間ではSLばんえつ物語は30km/h、それ以外は35km/h制限を受ける。
歴史
編集郡山駅 - 新津駅間を結ぶ後に磐越西線となる鉄道は、私鉄岩越鉄道が免許を受け、郡山側から工事を進めた。しかし1904年(明治37年)までに喜多方駅までを岩越鉄道が開通させた後、1906年(明治39年)の鉄道国有法成立を迎え、残りの区間建設は国鉄に引継がれた。国有化後、岩越線の名称で新潟県側と福島県側両方から工事が進められ、1914年(大正3年)11月1日に最後の区間となる野沢駅 - 津川駅間延伸、全通した[5]。当駅はこの最後の延伸区間に含まれる駅である[6]。
鹿瀬には以前、1739年(元文4年)に発見されたと伝えられる草倉鉱山が存在しており、明治時代になると古河財閥創始者古河市兵衛の手に渡って大発展し、古河財閥源流企業である古河鉱業の有力鉱山として操業していた。現在の角神温泉付近に当たる[7][6]。鉱山では700人に及ぶ従業員が働き、小学校、郵便局、請願巡査も設置される等大きな町となっていた[8]。
鹿瀬を通過する磐越西線を国鉄が建設するに当たり、鹿瀬に駅が出来るかどうかは当初は確定していなかった。しかし岩越線が着工する頃に、古河鉱業副社長を務めていた原敬が内務大臣であったことの影響もあり、鹿瀬に駅が新設されることが決定された。駅は集落を貫いて設置されることになり、10戸の移転が発生したが、その移転費用も半分程は古河鉱業が負担したと言う。ところが、鉄道が開通する頃になると草倉鉱山は衰退・枯渇し、当駅が開設した1914年(大正3年)に閉山となって、結局古河鉱業がこの鉄道を利用することは無かった[6][8]。
その後、1925年(大正14年)から東信電気が阿賀野川において水力発電所建設を開始し、鹿瀬ダムとその発電所を完成させた。そのために鹿瀬駅から専用線が伸ばされ、盛んに資材輸送が行われた。発電所で発生した電力は、当初は東京に長距離送電を行う計画であったが、発電所の完成した1928年(昭和3年)は昭和金融恐慌の真っ最中であり、そうした電力需要は望めなくなってしまった[6][8]。そこで東信電気と東京電燈、鈴木商店の共同出資で昭和肥料が設立され鹿瀬工場が建設されて、この電力を用いてカーバイド(炭化カルシウム)から肥料となる石灰窒素を製造するようになった。更に1936年(昭和11年)には昭和合成が設立されて、昭和肥料からカーバイドの供給を受けてアセトアルデヒドを経て酢酸を生産する工場を隣接地に稼働させた。この両社は後に昭和電工となる[9]。
この昭和電工鹿瀬工場稼働に伴い、鹿瀬は大きく発展、町勢も駅利用客数も工場稼働と共にするようになった。昭和電工鹿瀬工場全盛期は1950年代頃であり、工場従業員は2,500人を数え、乗降客数は1日4,000人を超えた。朝通勤ラッシュは大混雑となり、列車から降りた人の先頭が駅から約500m離れた工場の門に辿り着いているのに、末尾はまだホームに残っている程であった。貨物も製品肥料やコークス等1日約400tが取扱われた。更に製品原料である石灰石は、小花地付近(津川駅よりも西側)で採掘して索道で工場に搬送していたが、1958年(昭和33年)頃から北陸本線青海駅からの貨車輸送に切替えられた。これにより貨物取扱が更に急増、1961年(昭和36年)には1日1,100tを超えるようになった[10]。こうした貨物は、津川方から工場へ入る専用線で運ばれた[6]。
肥料である石灰窒素は単価が安く、企業収益への寄与が限られることから、第二次世界大戦後の消費生活発展に伴って需要が増大していた有機合成化学品生産に注力するようになった[11]。鹿瀬工場では1959年(昭和34年)に石灰窒素生産を廃止し、以降有機合成用途の酢酸生産が中心となった。しかし、石油化学方式が導入可能となり、エチレンを直接酸化してアセトアルデヒドを生産可能になったことから、昭和電工でも山口県徳山市(現・周南市)に石油化学方式アセトアルデヒド生産プラントを1965年(昭和40年)に稼働させた。これにより鹿瀬工場では石灰石からカーバイドを経由したアセトアルデヒド生産が中止となり、徳山工場からアセトアルデヒドを輸送しての酢酸製造が中心となった[9]。更に、鹿瀬工場でアセトアルデヒドを生産する際に阿賀野川に排出されていた廃液に有機水銀が含まれており、阿賀野川河口付近を中心に有機水銀中毒患者が発生する公害病の第二水俣病(新潟水俣病)を引起こした。こうした産業構造変化と公害病打撃に伴い、鹿瀬工場は分社化され鹿瀬電工となり、工場は縮小へ転じた[6][10]。
1980年(昭和55年)時点では工場従業員は約300人程となり、鹿瀬町人口は最盛期から半減した。駅乗降客数も1日800人程となり、貨物は鉱石やコークス等1日約420tとなった[12]。1985年(昭和60年)に貨物取扱は廃止、その後交換設備も撤去され、無人駅化。鹿瀬電工は更に新潟昭和となり、2019年(令和元年)時点では従業員100人程度となっている[13]。
年表
編集駅構造
編集単式ホーム1面1線[2]を有する地上駅。以前は島式ホーム1面2線を有する交換可能駅であった、既に交換設備は撤去されている。
新津駅管理の無人駅。駅舎は待合室のみとなっている。他には、トイレ(水洗式)、自動販売機、公衆電話等がある。
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待合室(2023年4月)
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駅内に出店していた高橋ふとん店(2014年1月)
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ホーム(2023年4月)
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1983年11月20日に架け替えられた阿賀野川深戸橋梁(日出谷 - 鹿瀬間)の初代橋桁の一部が、モニュメントとして展示されている。(2004年9月)
駅周辺
編集駅前は昭和電工の企業城下町。駅北側の3km程離れた場所(草倉銅山跡地周辺)には角神旅行村やかのせ温泉赤湯、鹿瀬ダム、雪椿園、赤崎山森林公園等がある。
隣の駅
編集脚注
編集- ^ a b c d “JR東日本:各駅情報(鹿瀬駅)”. 東日本旅客鉄道. 2014年10月25日閲覧。
- ^ a b c 『週刊JR全駅・全車両基地』第50号、朝日新聞出版、2013年8月4日、25頁、2014年10月25日閲覧。
- ^ a b 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号、14頁
- ^ a b c d e 石野哲(編)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』(初版)JTB、1998年10月1日、518頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ 『津川町史』pp.144 - 145
- ^ a b c d e f 「日出谷・鹿瀬・津川の3駅史」p.82
- ^ “草倉銅山坑夫の墓”. 阿賀町. 2021年1月15日閲覧。
- ^ a b c 『越後の停車場』p.245
- ^ a b 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」p.39
- ^ a b 『越後の停車場』pp.245 - 246
- ^ 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」p.35
- ^ 『越後の停車場』p.246
- ^ 「日出谷・鹿瀬・津川の3駅史」pp.82 - 83
- ^ 新潟日報昭和59年6月9日下越版
- ^ 「通報 ●飯田線三河川合駅ほか186駅の駅員無配置について(旅客局)」『鉄道公報号外』日本国有鉄道総裁室文書課、1986年10月30日、12面。
- ^ 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号、17頁
- ^ 「JR東日本新潟、五泉駅に営業所磐越西線を統括」『日本経済新聞』日本経済新聞社、1991年6月30日、地方経済面 / 新潟、22面。
- ^ 新潟日報 平成7年12月26日19面
- ^ “町内バス時刻表”. 阿賀町. 2021年8月25日閲覧。
参考文献
編集- 岩成政和「日出谷・鹿瀬・津川の3駅史」『鉄道ジャーナル』第636号、鉄道ジャーナル社、2019年10月、82 - 83頁。
- 津川史編さん委員会 編『津川町史』津川町、1969年。
- 朝日新聞新潟支局 編『越後の停車場』朝日新聞社、1981年12月15日。
- 和田俊二「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」『彦根論叢』第146号、滋賀大学経済学会、1970年11月、24-51頁、ISSN 03875989、NAID 110004573000。
- 曽根悟(監修)(著)、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)(編)「磐越東線・只見線・磐越東線」『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』第6号、朝日新聞出版、2009年8月16日。
関連項目
編集外部リンク
編集- 駅の情報(鹿瀬駅):JR東日本
- 国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所 地すべり対策事業(アーカイブ) - 「赤崎地区(新潟県鹿瀬町)」の写真中の赤線の範囲に入っている区間がおおよその速度制限区間。
- 1976年(昭和51年)頃の鹿瀬駅周辺 - 地理院地図(国土地理院)
- 鹿瀬駅構内の貨物ヤードと昭和電工鹿瀬工場への専用線が見える。