鹽竈神社 (仙台市宮城野区)

宮城県仙台市宮城野区にある神社

鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、宮城県仙台市宮城野区JR仙台駅東口の初恋通沿いにある神社。「名掛丁塩釜神社」とも呼ばれる。当社は、同県塩竈市にある鹽竈神社仮宮を端緒とし、現在は島崎藤村が下宿していた三浦屋の跡地に建つ。

鹽竈神社
所在地 宮城県仙台市宮城野区榴岡2-2-22
位置 北緯38度15分42.5秒 東経140度53分4.2秒 / 北緯38.261806度 東経140.884500度 / 38.261806; 140.884500
主祭神 塩土老翁神
創建 延宝8年(1680年
本殿の様式 神明造鉄骨構造
別名 名掛丁塩釜神社
例祭 10月10日
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参道の敷石には2004年平成16年)に解体された2代目宮城野橋の階段の石が使われている。

祭神

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塩竈市の鹽竈神社の分祠であるため、祭神は同神社と同じである(ただし、塩竈市の鹽竈神社では別宮、左宮、右宮にそれぞれ塩土老翁神武甕槌神経津主神の3座を祀るのに対し、当社では塩土老翁神のみが祀られている)。

安産・交通安全に利益があるとされる塩竈市の鹽竈神社と同様の神徳を有すとされるが、さらに縁結びや初恋成就にも利益があるとされている。

歴史

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江戸時代延宝年間1673年 - 1681年)に、仙台藩第4代藩主伊達綱村原田宗輔を修造奉行に、三分一所典膳を副奉行に任命して塩竈の鹽竈神社を修造させたが、その修造期間中、鹽竈神社の神体御幣)および勅額仙台城城下町東六番丁にあった高福院[1]境内に設けられた仮宮に安置し、延宝8年(1680年)に修造が終わって神体を塩竈に戻すに際して、仮宮を廃せずに塩土老翁神を分祠して「塩竈大明神」と称したのが創祀であり、以後、地元の氏子らの信仰を集めた[2]

明治元年(1868年)の神仏判然令を受けて塩竈大明神は「鹽竃神社」と改称して独立することとなり[3]名掛丁(現在の仙台駅西口側の町域)にあった歳徳神社と合祀されて東六番丁29番地にあった三吉神社境内に遷座、同時に同神社を境内末社とした[4]

平成12年(2000年3月11日JR仙石線連続立体交差化事業により宮城野通の地下の仙台トンネルに移設開通すると、仙台駅東第二土地区画整理事業[5]により当社周辺の整備が行われ、同14年(2002年2月に現在地(島崎藤村が下宿していた三浦屋の跡地)に遷座した。なお、同16年(2004年)には藤村広場[6]、および仙台駅東口駅前広場が完成し、両者が当社の門前を経由する初恋通りで繋がれている。

当社の門前町となった初恋通には飲食店が集積し、仙台駅東口における新興の歓楽街となりつつある。

末社

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  • 三吉神社

脚注

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  1. ^ 寛永11年(1634年開山真言宗寺院であった。
  2. ^ この記述に関して、宮城県神社庁のページには「寛文12年(1672)仙台藩4代藩主となった伊達綱村は、塩釜の鹽竈大明神(塩竈神社)を修造する際に原田甲斐を修造奉行に…」「1680年に鹽竈神社が完成して…」という記述がみられるが、原田が関わった修造は、3代藩主・綱宗が1659(万治2)年に着手し、その後隠居した綱宗に替わって藩主となった綱村が数え5歳になった1663(寛文3)年まで行われた「寛文の造営」であり、これらの説明と矛盾する。かつ原田は1671(寛文11)年の寛文事件(伊達騒動)の際に死去しているため、当該記述には再検討の必要がある。
  3. ^ ちなみに高福院は、日本鉄道本線(現JR東北本線)建設にあたって仙台停車場(現JR仙台駅)構内にあてがわれることとなり、同線が仙台に開通した明治20年(1887年)に仙台区荒町満福寺毘沙門天をまつる毘沙門堂があり、奥州仙臺七福神の1つに数えられている)に合併されて廃寺となった。
  4. ^ 最新版仙台市全図市街地町村及番地入(明治44年)(仙台市市民センター「名掛丁の変遷」) … 地図では東六番丁29番地の北側に「塩釜祠」と記載されている。
  5. ^ 仙台駅東第二土地区画整理事業(仙台市)
  6. ^ 仙台そぞろ歩き 文学編 (1) 藤村広場河北新報 2008年10月2日)。

関連項目

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外部リンク

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