高松 冨久子(たかまつ ふくこ、1921年3月31日 - 1990年6月2日[1])は、日本のスクリプター脚本家である。名スクリプターとして早撮りの渡辺邦男監督に信頼され、のちに夫の映画監督沢島忠との共同で鷹沢 和善として脚本を書いた。結婚後の本名は沢島 冨久子さわしま-)である。

来歴・人物

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1921年(大正10年)3月31日、東京に生まれる。祖父はタカマツ・アズマプロダクション創立者の高松豊次郎、父は吾嬬撮影所所長で豊次郎長男の高松幹一、母こう、伯父は同次男で撮影技師小谷三郎、同三男で映画監督の吉村操(高松操、のち岡本姓)である[1]。従妹に脚本家の岡本育子(吉村操の娘)がいる[1]

川村女学院卒業後の1940年(昭和15年)、東京発声に入社、スクリプターとなる。豊田四郎監督作品を多く手がけ、同社の東宝吸収後は東宝に移り、黒澤明監督の『虎の尾を踏む男たち』(1945年製作、1952年公開)の記録を手がける。東宝大争議後は1947年(昭和22年)3月設立の新東宝へ移り、渡辺邦男監督作品を手がけつつフリーランスになる[1]

1950年(昭和25年)3月15日京都東横映画撮影所で、渡辺組の助監督になった5歳下の沢島忠と出会う。1953年(昭和28年)6月15日、『大菩薩峠第三部』の完成をもって沢島にプロポーズされる。「渡辺天皇」とまで呼ばれた渡辺監督の反対に遭い、長く膠着したが、1955年(昭和30年)春に正式に結婚した[1]1957年(昭和32年)12月、東京から母こうを呼び、沢島との新居でともに暮らし、以降、ともに沢島を支える。

1958年(昭和33年)、沢島監督の映画『若君千両傘』の脚本家に、沢島との共同脚本家「鷹沢 和善」として、1966年(昭和41年)の沢島作品『冒険大活劇 黄金の盗賊』に原案としてクレジットされる。命名は映画プロデューサーの玉木潤一郎であった[1]。以降、25本を執筆した。また、従妹岡本育子を脚本家として育てる。

1988年(昭和63年)8月22日、母こう(90歳没)を失う[1]

1990年(平成2年)6月2日、癌で死去[1]。69歳没。

関連事項

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  1. ^ a b c d e f g h 『沢島忠全仕事 - ボンゆっくり落ちやいね』(沢島忠、ワイズ出版、2001年 ISBN 4898300960)の記述(p.133-136、p.180、p.375、 p.377)を参照。

外部リンク

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