鷹司煕通
日本の華族、陸軍軍人。侍従長、貴族院議員。陸軍少将従一位勲一等公爵。鷹司家25代。
鷹司 煕通(たかつかさ ひろみち、1855年4月2日〈安政2年2月16日〉 - 1918年〈大正7年〉5月17日)は、日本の華族、陸軍軍人。侍従長、貴族院議員。官位は陸軍少将正二位勲一等公爵。
鷹司煕通 たかつかさ ひろみち | |
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生年月日 |
1855年4月2日 (安政2年2月16日) |
没年月日 | 1918年5月17日(63歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校 |
前職 | 侍従武官 |
称号 |
勲一等旭日大綬章 大礼記念章 勲三等旭日中綬章 明治三十七八年従軍記章 勲六等瑞宝章 大日本帝国憲法発布記念章 正二位、贈従一位 |
配偶者 | 鷹司順子 |
子女 |
長男・鷹司信輔 次男・鷹司信熙 |
親族 |
義父・徳大寺実則(内大臣) 兄・九条道孝(貴族院議員) 兄・鶴殿忠善(貴族院議員) 義兄・菊亭脩季(貴族院議員) 弟・二条基弘(貴族院議員) 甥・九条道実(貴族院議員) 甥・鶴殿家勝(貴族院議員) 甥・二条厚基(貴族院議員) |
在任期間 | 1890年2月 - 1918年5月17日 |
経歴
編集九条尚忠の子として安政2年(1855年)に生まれた。嗣子のなかった鷹司輔煕の養嗣子となり、輔煕の「煕」とその父政通の「通」をとって煕通と名乗った。
1872年(明治5年)、養父の隠居に伴い鷹司家を相続した。同年、ドイツに留学した。
1879年(明治12年)2月1日に陸軍士官学校(旧2期)を卒業した。同期には大迫尚道陸軍大将、井口省吾陸軍大将、大谷喜久蔵陸軍大将男爵がいた。
1889年(明治22年)11月5日に皇太子嘉仁親王の東宮武官に就任、1902年(明治35年)6月12日には侍従武官に就任する。 その間、1884年(明治17年)7月7日には公爵に叙され[1]、1890年(明治23年)2月には公爵議員として貴族院議員に就任した[2]。
1907年(明治40年)11月13日、陸軍歩兵大佐に進み、1910年(明治43年)2月16日、陸軍少将に昇ると共に後備役となり、侍従職幹事に就任する。1912年(大正元年)12月21日、侍従長に任命される。1915年(大正4年)4月1日、陸軍を退役[3]。1916年(大正5年)、旭日大綬章を賜る。1918年(大正7年)5月17日、脳溢血のため薨去[4]。墓所は小倉山二尊院。
栄典
編集- 位階
- 勲章
系譜
編集脚注
編集- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』10頁。
- ^ 『官報』第809号、大正4年4月16日。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
- ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1736号「叙任及辞令」1918年5月18日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
公爵 鷹司家初代 1884年 - 1918年 |
次代 鷹司信輔 |