鷹司孝子

徳川家光の正室(御台所)。

鷹司 孝子(たかつかさ たかこ、慶長7年(1602年)5月 - 延宝2年6月8日1674年7月11日))は、江戸幕府第3代将軍徳川家光正室御台所)。通称「中の丸様」。院号は本理院(ほんりいん)。墓所は無量山傳通院

父は関白鷹司信房、母は佐々成政の娘・輝子(岳星院)。兄に関白・鷹司信尚、弟に松平信平鷹司松平家の祖)。妹に浄土真宗本願寺派第14代宗主・大谷寂如の妻・貞淑院如瑞がいる。家光の息子である5代将軍徳川綱吉の正室・鷹司信子は信尚の孫であり、孝子の姪孫にあたる。

生涯

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元和9年(1623年)8月、家光が征夷大将軍宣下を受けるための上洛中に江戸へ下り、徳川秀忠継室の江(崇源院)の猶子となる。12月に輿入れ、翌寛永元年(1624年)には祝言が行われ本丸入りする。翌年に正式に婚礼し、御台所となる(当初「若御台」と呼ばれた)。

慶安4年(1651年)の家光の没後、落飾して本理院と号する。寛文4年(1664年)に上洛し後水尾上皇に拝謁する。延宝2年(1674年)に死去、享年73。戒名は本理院殿照誉円光徹心大姉[1]

墓所は歴代の将軍、御台所が眠る芝・増上寺でも上野・寛永寺でもなく、将軍家の一族の多くが眠る東京都文京区の小石川傳通院にある。

人物

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通説により、家光との仲は結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後ほどなくして事実上家光から離縁された。大奥から追放されて「御台所」の称号も剥奪され、江戸城内の中ノ丸に新たに御殿を与えられた後、「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、長期にわたる軟禁生活を送らされるなど、家光の在世中は終始忌み嫌われ、冷遇され続け、家光との間に子供は儲けなかったという。

これに対して、九州大学近世史教授·福田千鶴は著作『大奥を造った女たち』の中で、孝子は結婚されて間もなく精神的疾病を患い、義父の秀忠によりいったん京へ帰す予定であったが、結局中丸にて過ごさせることになったことを明らかにした。

現存の良質な史料や資料から、実際孝子と家光の悪い仲を読み取ることができない。しかも、弟の鷹司信平(松平信平)が孝子を頼って江戸へ来た時には、家光は信平を歓迎し俸禄を与えて召し抱えた。

さらに、家光が死去する際、形見分けとして孝子へ与えられたのは、金5000両であった(「江戸幕府日記」)。将軍正妻の役割を果たさなかったものの、家光死後のその生活はこれによって確保できたと言える。

家光は家綱綱吉ら自らの息子と孝子との養子縁組も結ばなかったため、孝子が死去した際はその喪に服することができなかったが、将軍家綱は家光死後より、母親に準じる手厚い庇護と敬意を孝子に贈り続けていたと分かる。

中年の孝子は実家の京都へ一度戻ってきた上に、家光三男の綱重の婚礼も積極的に手配していたと福田が指摘したように、夫に冷遇され、寂しい人生をやむを得ずに送っていたといった印象は、現在多くの史料により刷新されつつある。

歴代の御台所の位階従二位、もしくは従一位であるのに対し、孝子は生涯にわたり無位無官であった。没後89年を経て、徳川第10代将軍家治の時代となった明和2年(1763年)に従一位が贈られた[2]

関連作品

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劇中での孝子は、紀州藩藩主・徳川光貞(演:小沢栄太郎)の陰謀から逃れるため、あえて死を偽装し、千愁尼として多羅尾半蔵(演:千葉真一)とともに戦う、と言う設定になっている。

脚注

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  1. ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』175頁
  2. ^ Iemitsu ōoku nakanomaru no shōgai : kanō tan'yū to tsukushita tokugawa taihei no yo.. Kazuko Endō, 遠藤和子. Tōkyō: Koishikawayunitto. (2013). ISBN 4-88546-249-5. OCLC 840432087. https://www.worldcat.org/oclc/840432087