鳥居重正
戦国時代から江戸時代初期にかけての武士
鳥居 重正(とりい しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。徳川氏の家臣[1][2]。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文19年(1550年)[1][2] |
死没 | 元和2年12月19日(1617年1月26日)[1][2] |
別名 | 又十郎、又右衛門尉[1][2] |
戒名 | 浄喜[1][2] |
墓所 | 円乗寺[2] |
幕府 | 江戸幕府 天守番[2] |
主君 | 松平家忠、徳川家康、内藤家長、徳川家康 |
氏族 | 鳥居氏[2] |
父母 | 父:鳥居正載[1][2] |
子 |
菅沼左次右衛門の妻、鳥居正定の妻、春起、菅沼儀兵衛の妻[1][2] 養子:正定[注釈 1]、重次[注釈 2][1][2] |
略歴
編集三河国碧海郡渡の武士・鳥居氏の一族で、岡崎城主松平広忠に仕えた鳥居正載の子。徳川家康の重臣として知られる鳥居元忠らとは同族であるという[4][2]。『士林泝洄』は東条松平家の松平家忠に仕えたとしている[5]。
永禄2年(1559年)に誕生した徳川家康の嫡男竹千代(松平信康)の傅役に任じられる[1][2]。永禄6年(1566年)の三河一向一揆蜂起に際して鳥居一族は鳥居忠吉らが家康方に、鳥居忠広や重正は一揆方に加わり、重正は戸田忠次らとともに佐々木上宮寺に籠城している[6][7]。天正7年(1579年)信康が自害させられた後は他の信康旧臣とともに内藤家長の麾下になったとも浪人したともいうが[注釈 3]、後年、再び家康に仕えて天守番に任じられた[2][10]。
元和2年(1616年)没[1][2]。三子があり、実子の春起は松平忠吉、次いで尾張藩士となった[2][10]。婿養子の正定[注釈 1]は旗本として重正の家督を継承した[1][2]。なお外孫にあたる重次[注釈 2]は重正の実子と偽って幕府へ届けていたが、後に重正が自首して訂正されている[11]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 阿部昭「鳥居氏」『国史大辞典』 6巻、吉川弘文館、1963年。ISBN 978-4-642-00510-4。
- 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』 2巻《中世》、新編岡崎市史編さん委員会、1989年。
- 『家康史料集』小野信二(校注)、人物往来社〈戦国資料叢書〉、1965年。
- 『寛永諸家系図伝』斎木一馬・林亮勝・橋本政宣(校訂)、八木書店、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0。
- 『寛政重修諸家譜』 7巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0211-6。
- 『寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0。
- 『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。
- 『内藤侯平藩史料』 1巻、平市教育委員会〈郷土資料双書〉、1975年。