鮎貝盛次
鮎貝 盛次(あゆかい もりつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。家格は一家の第一席。出羽国置賜郡鮎貝城主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治元年(1555年) |
死没 | 寛永元年10月3日(1624年11月13日) |
改名 | 宗重(初名)→盛次→日傾斎(号) |
別名 | 通称:兵庫、安房 |
墓所 | 宮城県柴田郡堤邑の持明院 |
主君 | 伊達輝宗→政宗 |
氏族 | 鮎貝氏 |
父母 | 父:鮎貝盛宗 |
兄弟 | 盛次、高玉茂兵衛、左近宗倶 |
子 | 忠旨(宗信)、宗益 |
生涯
編集弘治元年(1555年)、鮎貝盛宗の子として、出羽置賜郡下長井荘の鮎貝城[1][2]にて誕生。
天正2年(1574年)9月、芋川の敵を討取り、伊達輝宗に献上した。鮎貝城は最上氏との境に位置しており、鮎貝氏は伊達氏側の臣として家格は一家の上座にあった。天正12年(1584年)、輝宗が家督を政宗に譲り隠居した際、隠居城となる館山城が完成するまで、居城である鮎貝城に輝宗を迎えている。
天正15年(1587年)10月14日、長男・忠旨(宗信)が、最上義光の策で謀反を起こし鮎貝城に拠って兵を上げた。盛次は忠旨に説得を試みたが失敗、高玉城に帰還した盛次は政宗に討伐を要請する。政宗は湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。忠旨は最上義光へ援軍を要請したが後援は来ず、忠旨は籠城を諦め夜半密かに城から脱出し、最上領へ逃亡した。鮎貝城に残存していた数百人は討ち取られた。その後、盛次は政宗より忠義の志を賞され、柴田郡堤邑の領地を下賜され、家督は次男・宗益が継承し、一家の上席に復した。
天正16年(1588年)1月5日、盛次は米沢城に登城し、政宗に新年の御礼を述べる。天正19年(1591年)、奥州再仕置きにより、政宗が岩出山へ移る際、盛次も従い、柴田郡堤邑に移った。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『伊達治家記録』
- 『伊達世臣家譜』
関連項目
編集- 鮎貝房之進
- 落合直文