鮎川盛貞

日本の衆議院議員 (1880-1961)

鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年明治13年)6月13日[1]1961年昭和36年)5月28日[2][3])は、日本の弁護士政治家衆議院議員立憲国民党革新倶楽部)。

鮎川盛貞
あゆかわ もりさだ
生年月日 1880年6月13日
出生地 日本の旗 日本 福岡県小倉市
(現・北九州市
没年月日 (1961-05-28) 1961年5月28日(80歳没)
出身校 日本法律学校
(現・日本大学
前職 弁護士
現職 弁護士
所属政党立憲国民党→)
革新倶楽部→)
無所属

選挙区 福岡県第4選挙区
当選回数 1回
在任期間 1920年 - 1923年11月13日
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経歴

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福岡県小倉市(現北九州市)出身[3]。豊津中学校[3](現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後[2]、法律事務所で経験を積み[3]、小倉市で弁護士を開業した[2][3]。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた[2]

1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選[4]1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした[5]。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した[6]

1923年、小倉市に東洋民報社を設立して普選運動を推進した[3]。1928年(昭和3年)2月、第1回普通選挙(第16回総選挙、福岡県第4区、中立)に立候補したが落選[7]。東洋民報を廃刊とし、大阪に転居して弁護士の活動に専念[3]中山製鋼所の顧問弁護士を務めた[3]

晩年は京都市の中山製鋼所の中山家別邸・東光院で余生を過ごした[3]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第45回帝国議会衆議院議員名簿』、1923年。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』26頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『増補 新豊前人物評伝』270-271頁。
  4. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』98頁。
  5. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』26頁。
  6. ^ 『官報』第3370号、大正12年11月15日。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』484頁。

参考文献

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  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 中村十生『増補 新豊前人物評伝』新豊前人物評伝刊行会、1978年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。