魯郡(ろ-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の山東省南部に設置された。

概要

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のとき、の故地に薛郡が置かれた。

紀元前201年前漢高帝6年)、劉交が楚王となると、薛郡は楚国に属した[1]紀元前186年高后2年)、張偃が魯王となると、魯国が立てられた[2]。前漢の魯国は豫州に属し、汶陽の6県を管轄した[3]

後漢のとき、魯国は魯・騶・蕃・薛・卞・汶陽の6県を管轄した[4]

のとき、魯郡は魯・汶陽・卞・・蕃・薛・公丘の7県を管轄した[5]

北魏のとき、魯郡は兗州に属し、魯・汶陽・鄒・陽平新陽の5県を管轄した[6]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、魯郡は廃止されて、兗州に編入された。606年大業2年)、兗州が魯州と改められた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、魯州が魯郡と改称された。魯郡は瑕丘任城・鄒・曲阜泗水平陸龔丘梁父博城の10県を管轄した[7]

622年武徳5年)、唐が徐円朗を平定すると、魯郡は兗州と改められ、任城・瑕丘・平陸・龔丘・曲阜・鄒・泗水の7県を管轄した。742年天宝元年)、兗州は魯郡と改称された。758年乾元元年)、魯郡は兗州と改称され、魯郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

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  1. ^ 漢書』楚元王伝
  2. ^ 『漢書』高恵高后文功臣表
  3. ^ 『漢書』地理志下
  4. ^ 後漢書』郡国志二
  5. ^ 晋書』地理志上
  6. ^ 魏書』地形志二中
  7. ^ 隋書』地理志下
  8. ^ 旧唐書』地理志一