高潭
経歴
編集高季式の子として生まれた。北斉の文宣帝のとき、挽郎に任じられた。560年(乾明元年)常山王高演が丞相となると、高潭は霸府参軍事となり、乗氏県開国子の爵位を嗣いだ。并州騎兵参軍事となり、太子洗馬に抜擢され、伏波将軍・散騎侍郎の位を受けた。母が死去すると、服喪のために辞職した。再起して琅邪王大司馬従事郎となり、平西将軍の位を加えられ、司州成安県令をつとめた。北斉の末年に儀同三司の位を受けた。
北斉が北周に滅ぼされると、北周に仕えて殄寇将軍の位を受け、陽安県令となった。580年(大象2年)9月13日、官寺で死去した。享年44。
高潭墓の発見
編集参考文献
編集- 「河北景県北魏高氏墓発掘簡報」、『文物』1979年第3期
- 「故周殄寇将軍益州陽安令高君墓誌銘」(高潭墓誌)、羅新・葉煒『新出魏晋南北朝墓誌疏証』(中華書局)