高千穂丸(たかちほまる)は、かつて大阪商船が運航していた貨客船第二次世界大戦中に米潜水艦に撃沈され、多数の遭難者を出した。

高千穂丸
基本情報
船種 貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 大阪商船
運用者 大阪商船
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 大阪港/大阪府
船級 ロイド船級協会(en:Lloyd's Register)
信号符字 JWIH
IMO番号 38759(※船舶番号)
建造期間 437日
就航期間 3,334日
経歴
起工 1932年11月20日
進水 1933年10月5日
竣工 1934年1月31日
最後 1943年3月19日 被雷沈没
要目
総トン数 8,154トン
載貨重量 6,185トン
全長 138.16m
垂線間長 137.16m
17.98m
深さ 11.28m
高さ 30.1m(水面からマスト最上端まで)
10.3m(水面から船橋最上端まで)
19.2m(水面から煙突最上端まで)
喫水 7.393m
ボイラー 石炭専焼缶
主機関 三菱ツェリー・オール・インパルス二段減速タービン機関 2基
推進器 2軸
最大出力 9,185HP
定格出力 9,000HP
最大速力 19.18ノット
航海速力 14.66ノット
旅客定員 一等:31名
二等:132名
三等:669名
合計:832名
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)
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概要

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文中、トン数表示のみの船舶は大阪商船の船舶である。

台湾航路略史

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大阪商船は、日清戦争終結後、戦争の結果獲得した台湾への航路開設をいち早く検討し、社員を現地に派遣した上で資本金を増強して航路開設の準備を行った。また、航路開設の申請書を台湾総督府に提出した。その結果、台湾総督府は大阪商船に対し、1896年5月以降に大阪基隆間の航路を台湾総督府命令航路として定期航海を下命した。その後、日本側の基点が大阪が神戸に変更され、大阪商船に対する下命の翌1897年には日本郵船[注釈 1]に対しても神戸・基隆間航路を命令航路として下命したが、後者に対して大阪商船では、大型船の投入などで常に先手を打ってサービスの向上に努めた。

高千穂丸の登場

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大阪商船は、開設期の台湾航路には3,300トンクラスの台中丸級貨客船2隻を就航させたが、日露戦争後からはより大型の客船を投入した。1910年からは「笠戸丸」(6,209トン)が投入され、1924年まで就航した。他にも「亜米利加丸」(6,030トン)、「扶桑丸」(8,196トン)、「蓬莱丸」(9,205トン)、「瑞穂丸」(8,511トン)などが投入されたが、これらはいずれも他の船会社や外国からの購入船だった。そこで、台湾航路用の新造船として建造されたのが「高千穂丸」だった。

設計に際し、大阪商船の主任造船技師だった和辻春樹は、客室部分の甲板の反りを廃止して極力水平に近づけ、居住性を高めた。三菱重工業長崎造船所での建造時には、逓信省ロイド船級協会の特別監査が入った[2]。また、船内装飾は全面的に日本趣味様式が採用され、蒔絵螺鈿が取り入れられた[2]

1934年1月31日に竣工し、2月10日に処女航海を行った[注釈 2]日中戦争初期の1937年8月から1938年2月には「瑞穂丸」とともに陸軍使用船として徴用されたが、「高千穂丸」はのちに航路に復帰[3][2]。1941年7月26日、日本の仏印進駐に抗議する形で、いわゆるABCD包囲網が形成。アメリカイギリスオランダとその属領で在外資産凍結を行ったため、海外在留の日本人は総引き揚げのやむなきに到った。9月から11月にかけて日本人引き揚げが行われ、「高千穂丸」は「日昌丸」(南洋海運、6,526トン)、「富士丸」(日本郵船、9,138トン)とともにオランダ領東インド在留の日本人引き揚げ船として活動した。

1942年4月、船舶運営会が設立。その後、大阪商船の神戸・基隆航路は、ハイフォン直航線を除いた他の航路とともに運営会に移管された。また、「高千穂丸」の3年後に就航した「高砂丸」(9,315トン)は病院船として徴用されたが「高千穂丸」は徴用されず、同じく徴用されなかった「富士丸」や「大和丸」(日本郵船、9,655トン)とともに神戸・基隆航路に就航し続けた。

高千穂丸の最期

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1943年3月14日19時、「高千穂丸」は神戸を出港。瀬戸内海を通過して門司に到着。

3月17日正午、「高千穂丸」は船客913名、乗組員その他176名を乗せ、雑貨2,614トンを積み込んで[2]門司を出港し基隆に向かった。航海中、船内では連日避難訓練を行って不測の事態に備えていた[4]。しかし、台湾近海では3月15日に「富士丸」が雷撃を受けて間一髪被害を逃れる事態もあり[5]、安全は保障されていなかった。

3月19日朝、「高千穂丸」ではこの日も避難訓練を行っていた[4]

9時30分、基隆沖アジンコート(彭佳嶼)北東に差し掛かった時、アメリカ潜水艦「キングフィッシュ」から魚雷が発射された。「高千穂丸」はすぐさま取舵で魚雷をかわしにかかり、1本目はかわしたものの、2本目が右舷船尾に命中。続いて新たな魚雷2本が命中。1本は不発だったが、もう1本が右舷船倉に命中し、「高千穂丸」は急激に右側に傾いていった。被雷のショックで無線装置が破壊され[4]、救命ボートも3艇しか降下できなかった。

9時39分、「高千穂丸」は乗客乗員844名を乗せたまま沈没。脱出した245名はボートに分乗し、アジンコートにたどり着いて救助された。近辺の艦船には遭難の報が伝わらず、すぐさま救助には駆けつけなかった[4]。3月24日、逓信省は「高千穂丸」遭難を公表した[6]

幼年学校生の犠牲

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この際、台湾へ帰省予定の陸軍幼年学校の生徒も乗船しており、うち東京陸軍幼年学校(東幼)からは10名中7名の行方不明者(事実上の死者)を出した[7]。この他、広島陸軍幼年学校(広幼)から3名、熊本陸軍幼年学校(熊幼)から5名が乗船している[8]。遭難後、東幼の生徒は歌を歌って周囲の乗客を励まし、救命ボートへの乗船も後へ譲ったまま行方不明になった、と生存者が証言している[8]。生存した東幼生徒も救命活動に貢献し[9]、特に生存した3名全員が銃剣を保持したままだった点は大日本帝国陸軍台湾軍で高い評価を受けた[9]

1960年(昭和35年)になって、同期生が尽力した結果、東幼生7名を題材に『心の歌』として毎日放送テレビでドキュメンタリーが放映された[9]。これをきっかけに、東幼、広幼、熊幼のOBの努力により、1976年(昭和41年)10月17日靖国神社に合祀された[9]

高千穂丸を題材とした作品

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  • 『心の歌』(毎日放送テレビ、1960年)
  • 『浮世光影』(台湾映画、黄玉珊監督、2005年、原題:南方紀事之浮世光影。)

脚注

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注釈

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  1. ^ 1923年から1939年の間は近海郵船
  2. ^ 「高千穂丸」の就航で、「扶桑丸」は神戸・大連航路に移った

出典

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  1. ^ Takatiho_Maru
  2. ^ a b c d 野間[要文献特定詳細情報] p.97
  3. ^ 『大阪商船株式会社八十年史』 p.87
  4. ^ a b c d 野間[要文献特定詳細情報] p.98
  5. ^ 『馬公警備府戦時日誌』[要ページ番号]
  6. ^ 朝日新聞 昭和18年3月25日付
  7. ^ わが武寮 1982 p.697
  8. ^ a b わが武寮 1982 p.698
  9. ^ a b c d わが武寮 1982 p.699

参考文献

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  • 東幼史編集委員会『東京陸軍幼年学校史 わが武寮』東幼会、1982年10月。 
  • 『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船、1934年
  • 馬公警備府司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 馬公警備府戦時日誌』(昭和18年3月1日~3月31日 馬公警備府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030510400
  • 佐世保鎮守府司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 佐世保鎮守府戦時日誌』(昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030343300
  • 船舶運営会『昭和二二年六月 船舶運営会会史(前編)上』(昭和22年6月 船舶運営会会史(前編)上(11)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08050001400
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • 岡田俊雄編 『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年
  • 木俣滋郎『写真と図による 残存帝国艦艇』図書出版社、1972年
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話』至誠堂(図説日本海事史話叢書4)、1981年
  • 『朝日新聞縮刷版 昭和18年3月~4月(復刻版)』日本図書センター、1990年
  • 野間恒、山田廸生編『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年、ISBN 4-905551-38-2
  • 八代目林家正蔵、山本進編『正蔵一代』青蛙房、2001年、ISBN 4-7905-0295-3
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年

関連項目

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外部リンク

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